蝦夷(えみし)とは?わかりやすく:彼らは日本にとって不可欠な存在だった
蝦夷とは
古代の日本で、東北地方に住んでいた人々のこと。
ただし、「日本列島で中国のマネをしようと考えた人たちが、人工的に作り出した種族」って理解することが大事。
古代の日本(律令国家)にとって不可欠な存在
日本列島で暮らしていた人々(和人)は、日本列島の中でムラを作り、小さなクニを作り、やがて日本列島全体を一つの国にまとめようとしていた。その際、和人は隣にあった巨大な国家「中国」(唐)に憧れ、「中国」(唐)をお手本にしようとした。
その憧れの中国は、自分たちは「世界の中心」(中華)にいて、周辺の人々(国々)を異民族として従えているんだ!・・・という世界観を持っていた。そんな中国を、日本列島で「立派な国家」を作ろうとしていた人々(和人)がマネしようとしたのだ。
そこでターゲットとなったのが、東北地方に住んでいた人々だった。
東北地方の人々は和人とは異なる文化を持っていた。東北地方は冷涼な気候だったため、和人がすでに行っていた稲作には向かない。そのため、東北地方の人々は縄文時代のような狩猟・採集・漁労を行い、小さなグループで生活をしていた。また、見た目も結構違っていたようで、長いヒゲを伸ばしていたり、毛深かったりしたらしい。
文化も見た目も異なる東北地方の人々は、「野蛮な異民族を従えた立派な国家」を作りたい和人にとって格好の存在だった。そこで和人は、東北地方の人々を「蝦夷」と呼び、異民族(夷狄)として設定したのである。実際に和人と人種的に異なる存在だったのか?は不明だが。
※和人は九州南部の人々も帝国構造に利用した。彼らは「隼人(はやと)」と呼ばれ、異民族として服従させられた。
古代の蝦夷とは、六世紀中ごろに、東北北部に住む続縄文系の文化を基層にもつ異文化集団を中核に、その南に接する東北中部および新潟県北部の地域の倭人文化圏に含まれる住民と、のちには北方文化圏の中心である北海道の住民をも含めて、古代王権が設定した種族概念であった
『蝦夷の地と古代国家』p.48
蝦夷を従わせる(仲間にする)ために、和人は何をしたのか?
蝦夷を従わせるため、和人は武力による「征討」だけでなく、もてなしたり、仲間になった蝦夷を優遇したりした(「饗給(きょうきゅう)」)。
そのための施設が「城柵」(じょうさく)である。和人は城柵を東北地方各地に築いた。
- 渟足柵(647)・磐舟柵(648)
- 出羽柵(708)
- 多賀城(724)
- 秋田城(733)
- 胆沢城(802)
- 志波城(803)
日本史の教科書を読むと、蝦夷を武力で従わせた(「蝦夷征討」)イメージばかり抱きがちだが、実際には強制的に従わせるだけでなく接待していた、ということ。このことも重要。
- 優越感の付与:蝦夷の有力者に位階や官職を与える。
- 実利の提供:東北地方ではなかなか手に入らない豪華な衣服や物品を与える。
つまり、多賀城などの「城柵」は軍事基地であり、行政機関であり、社交の場もあった。
・・・たしかに、誰かを仲間にしたい時に暴力を使うのは最終手段だよね。大規模な軍事行動には多額の費用がかかるし、多大な人的被害が出るから。このあたり、「人をどのように組織や体制に組み込み、味方にするか」の参考になる。日本史の教科書に乗っている征討の事例は、大事件だからこそ記録されたに過ぎず、むしろ例外的な出来事と捉えた方がよさそう。
・・・「台湾を手に入れたい中国」について考える視点にもなる。
しかし「蝦夷との戦い」は途中で打ち切られた
和人(朝廷側)たちは、「野蛮な異民族を従える」という国家事業を、完全に成し遂げる前に中止した。
桓武天皇の時代の805年、徳政相論(とくせいそうろん※)と呼ばれるディベートが行われ、激論の末に「東北地方での戦い」を打ち切ることが決定された(これ以上の大規模な侵攻=征夷を止めた)のである。
※藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が「軍事と造作(平城京建設)が民衆を苦しめている」と主張し、菅野真道(みちののまみち)が反論した。
なぜ蝦夷を完全に制圧しなかったのか?
日本史の教科書では2つの理由が説明されている。
- 国家財政の圧迫:長引く戦争で国の金が尽きかけていた。
- 民衆の負担増:兵役に駆り出される民衆が限界に達していた。
とりあえずこの2点を理解しておけばいいが、ここからは当時の実情や、記録には残りにくい「意思決定の背景」について、推測や妄想も交えながら5つの角度から深掘りしてみたい。
①「目的はもう、ある程度達成された」という判断
まず1つ目は、すでに目的はある程度達成されたと判断されたという点。もともと、蝦夷を服従させる名目は「野蛮な異民族を従えた、中国(唐)にも負けない立派な国家になる」というプライドのようなものだった。この時すでに、朝廷軍は東北北部にまで到達できる拠点を築いており、「形としては、もう十分じゃないか?」と考えられたとしても不思議ではない。
「完全に滅ぼさなくても、すでに味方に引き入れた蝦夷(俘囚 ふしゅう)のリーダー格に、さらに北にいる反発勢力をグリップしてもらえば、実質的な支配は成立している」というわけ。
もし、この「立派な国家になる」という目的にコスト以上の価値があると判断され続けていれば、戦いは継続されたはず。しかし、この価値観はあくまで「イマジナリー(観念的)」なもの。実際に北の端まで100%制圧していなくても、自分たちが「立派な国になった」と納得できれば、それ以上の無理をする必要はない。
何世代も前の人たちが掲げた「異民族を従えてこそ一流国家」という古いスローガンに対し、新しい世代の人たちが「それ、もうやんなくてよくね?」と疑問を抱いた。そんなドライな世代交代があったのではないだろうか。
②敵も強くなっていた
2つ目は、戦争のコストが当初の予想を超えて激増していたという点。朝廷は戦いのために全国各地に大量の武器・武具の製作を命じた。これにより各地の役所(国衙)を中心に軍事技術が普及したが、皮肉なことに、その高度な武具は戦いを通じて蝦夷側にも流出していたと考えられる。実際、蝦夷側は和人の鉄製武器の技術を取り入れつつ、彼ら特有の「蕨手刀(わらびてとう)」を発展させていた。
「戦いを始めた当初より自分たちは強くなったが、相手も同じかそれ以上に強くなっていた」というわけ。コスト(犠牲や出費)ばかりが増え、得られるメリットが見合わない。この「泥沼化」の予感が、中止の決断を後押ししたんじゃないかな。
③「実利さえ取れれば100点を目指さなくていい」という割り切り
3つ目は、統治のゴールを「完全支配」から「実利の確保」へシフトしたのではないか、という点。「力を見せつけて相手をビビらせ、欲しい物資(金や馬)を定期的に送らせる」という関係さえ作れれば、わざわざ莫大なコストをかけて全土を占領する必要はない。
テストに例えるなら、すでに50点から90点までスコアは伸びている状態。ここから死に物狂いで残りの10点を取って100点(完全制圧)を目指すより、「もう十分いいものが手に入っているんだから、無理しなくていいっしょ」という割り切りがあったのだと考えられる。
④「外への拡大」より「内側の充実」へ
4つ目は、国家のフェーズが「拡大」から「安定」へと移った点。この時期、国内の地方政治はかなり混乱していた。律令制というルールを全国に徹底させるのは想像以上に難しく、中央集権の限界が見え始めていたのだ。
お手本とした中国(唐)も、領土拡張の末に起きた地方の反乱(安史の乱)により、国家体制が動揺していた。手本が領土拡張で自滅しかけているのを見て、唐への憧れもトーンダウンしただろうし、自分たちもこのままじゃやばいかも?と学んだはず。
つまり、「異民族を従えた立派な国」という見栄よりも、「国内の不満を抑え、地に足のついた統治を行う」ことの方が重要だという、極めて現実的なフェーズに突入したのだ。
⑤「終わらせないこと」に価値を見出した人がいた?
5つ目は少し斜めからの視点だが、「あえて完全終了させずに、言い訳を残しておきたかった」という可能性。これは結構あるんじゃないかと思う。
組織というものは、特定の課題が解決してしまうとそのための予算や権限を失ってしまう。実際、この時期の日本では軍団兵士制が全国的に廃止されたが、東北地方は例外として温存された。
「まだ蝦夷との戦いは完全に終わっていない」 「東北にはまだ不安要素があるから、武力が必要だ」。そう主張することで、軍事力を維持し、自分の権力を守りたかった人たちがいたとしても不思議ではない。国内の治安不安や外部の危機を理由に、軍部がその存在意義をアピールする構造は、いつの時代にも見られる傾向だ。
そして、この「あえて残された火種」が、日本の歴史を「古代」から「中世」へと大きく動かしていくことになった。
蝦夷を完全に制圧しなかった結果・・・
東北地方は、蝦夷(えみし)という朝廷の支配が及ばない勢力が残っており、なおかつ中央政府から遠いという、極めて統治が難しい地域だった。だからこそ、そこでは法よりも「武力による解決」が日常的に必要とされた。
軍事力を身につけた人々(有力武士)にとって、東北地方は実戦経験を積める場だったのだ。実戦を通じて主従関係を構築し、自身の影響力を拡大することもできる。東北地方で産出される金や馬は、統率のシンボルとしても機能する。
- 前九年の役(1051年~1062年)や後三年の役(1083年~1087年)といった東北での大規模な戦乱は、源氏(源頼義・義家)などの有力武士が、実戦経験と組織力を獲得する絶好の機会となった。
武力行使が許される場所として東北地方が温存されることは、武芸で身を立てたい人々にとって都合が良い環境だったはず。源氏はやがて「征夷大将軍」という称号に任じられて、軍事政権を成立させるに至る。
東北地方は律令国家の崩壊に寄与し、中世の軍事政権の登場を促進する役割を果たしたと言ってもいいのではないか。
参考文献
熊谷公男(2004).『蝦夷の地と古代国家(日本史リブレット11)』. 山川出版社.
東北学院大学文学部歴史学科(2020).『大学で学ぶ 東北の歴史』. 吉川弘文館.









