本記事では、明治六年の政変(征韓論政変)について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
明治六年の政変(征韓論政変)とは?
まず最初に、明治六年の政変(征韓論政変)とは一体何なのか?についてざっくり説明します。
明治六年の政変(征韓論政変)
=1873年、明治政府の中で「朝鮮半島をゲットしに行くぞ!」って考えた人たちと「いやいや!日本国内の制度とかを整える方を優先するべきよ!」って考えた人たちの間で対立が生じて、
「朝鮮半島をゲットしに行くぞ!」って考えた人たちが政府から去ることになった政変。
※政変=政権の変動(権力者の交代)のこと。
これだけだとよくわからん!って感じだと思うので、ここからは背景も含めてもっとくわしく説明します!
明治新政府が直面した課題
戊辰戦争で旧幕府に勝利して、正式に今後の日本を引っ張っていく立場になった明治新政府は、外国との関係において次のような課題を抱えていました。
明治新政府が直面した外交面での課題
- 欧米諸国と不平等条約を結んでいた
- 欧米流じゃなくてアジア流の国際関係の中にいた
- 自分の国を守りきれるかが危うい
簡単に言うと、「欧米諸国と対等な関係になりたい!」&「強くなって自分の国を守れるようになりたい!」ってことです。
欧米諸国と不平等条約を結んでいた
1858年に日本はアメリカと日米修好通商条約を結びました。
この条約は
- アメリカの領事裁判権を認める
- 日本に関税自主権がない
という点で日本にとって不利な条約でした。しかも日本は、同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばされました(安政の五カ国条約)。
じゃあ具体的に何が問題なのか?というと、、、
「外国人が日本で犯罪を犯した時に、日本人じゃなくて外国人の領事が裁判をする」っていうのが「領事裁判権を認めた」の意味ですが、
そもそもこんなことを認めていたら独立国家とは言えません。国内のことは基本的に自分の国でなんとかする(他の国に関与させない)っていうのが独立国家だからです。
また、関税っていうのは「輸入品に課される税」のことです。外国商品に税をかけることで、外国商品の値段を上げて自分の国の商品が売れなくなることを防いだり(=国内産業の保護)、税収を増やしたりすることが目的です。
なので、関税の税率の決定権は輸入する国(この場合は日本)が握っている必要があります。ところが、日米修好通商条約によって、関税の税率の決定権を日本が握れなくなってしまったわけです。
これは、これから経済を発展させていこうと考えている日本にとって困ったことですよね。自分の国の産業が外国に負けて発展しなくなるかもしれないし、税収も少なくなるからです。
つまり、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、国家の独立と経済発展を目指す政府にとって超重要な課題だったということです。
ということで、廃藩置県っていう一大事業を終えた明治新政府は、1871年末に岩倉使節団をアメリカやイギリスなどに派遣しました。
岩倉使節団とは
岩倉具視を大使とする岩倉使節団です。よく教科書に写真が載っているやつですね。
※大使=海外に派遣していろんな交渉をしたり情報収集をしたりする外交使節団のトップの人
主なメンバーは、
- 岩倉具視(右大臣)
- 木戸孝允
- 大久保利通
- 伊藤博文
- 山口尚芳
で、他にも留学生や記録係などが一緒についていって、合計100人くらいの使節団になりました。
岩倉使節団を派遣した理由
①条約改正の予備交渉
- 安政の五カ国条約(日米修好通商条約とか)の改定時期が1872年だった
- このままだともっと不利な条約に改定されちゃうかも→改正交渉を延期してもらおう!
- 将来の改正に向けて予備交渉をしよう!
②欧米諸国の見学
結局、条約改正の予備交渉はうまくいかなかったようですが、
ただ、岩倉使節団のメンバーは、欧米諸国がどんな国なのか?を実際に目にして、「欧米諸国スゴすぎる!!!こりゃ日本国内の制度とかを整える方を優先しないとマズイわ!!!!(=内治優先)」って気づくことになりました。具体的に言うと、議会や様々な法制度を整備する必要性を痛感した、ということです。
そして1873年の秋頃に帰国しました。
欧米流じゃなくてアジア流の国際関係の中にいた
この点に関しては「明治初期の外交」の記事で説明をしていますので、この記事では省略します!
自分の国を守りきれるかが危うい
そして3つ目の課題は、日本の独立を守りきれるか(=何かがあっても領土を奪われないようにできるか)が微妙だったということです。
明治新政府は、国境を防衛して独立を守ろうとしていました。もうちょっと雑な言い方をすると、日本という国の内部にまで外国が(いろんな意味で)侵入してこないようにしよう!って考えていたってことです。
じゃあ国境を防衛して独立を守るために具体的にどんな方針を持っていたのか?というと、明治新政府は「国境の外側に勢力圏を確保することが必要だ!」という方針を持っていたんです。
というのも、国境の外側に日本が勢力を持っている地域があれば安全だからです。外国との間で何かヤバいことがあった時に、まずはその勢力圏を差し出して「これで許してください!日本の内部には入ってこないでください!」って感じの対処をすることができるわけです。
いわゆる植民地みたいなものです。この時代、欧米諸国はいろんな地域を自分の国の植民地にしていました。
でも日本は、国境の外に勢力圏を持っているとは言えない状況でした。
というわけで、日本も「国境の外に勢力圏を持ちたい!」って考えたようです。
※どの時点からこの方針を明確に持っていたのかは(僕には)わかりませんが、少なくとも1890年の段階では、明治新政府は「国境の外に勢力圏を確保するぞ!」って考えていました(←1890年に帝国議会が初めて開かれた時に、当時の首相だった山県有朋っていう人が、「独立確保のためには主権線(国境)を防御するだけでなく、利益線(国境の外側にある勢力圏)を確保することが必要だ!」と演説した)。
じゃあ、一体どこを日本の勢力圏(利益線)にするか?っていう話になりますよね。
明治新政府は【朝鮮半島】を勢力圏(利益線)にしようと考えました。地図を見てみるとイメージしやすいと思います。
- 東は太平洋だからムリ
- 北はロシアだからムリ
- 南は東南アジアだけど欧米諸国が勢力を持っていたからムリ
- 西は中国だからキツい
- じゃあ朝鮮半島かな
みたいな感じです。
ってことで、明治新政府はまず朝鮮に対して「国交を結びましょうよ」っていう交渉をしました。ところが、当時の朝鮮で権力を握っていた人が「外国ぶっとばせ!」っていう攘夷の方針だったので、なかなか明治新政府の思い通りにはいきませんでした。
明治新政府内で対立が起きた(征韓論争)
んで、いよいよ本題です。
岩倉使節団が外国に行っている最中、日本にとどまって三大改革(学制、徴兵制、地租改正)などを行った留守政府と、欧米諸国を実際に見てきた帰国組との間に、認識のズレが生じます。
留守政府
- 西郷隆盛
- 板垣退助
- 江藤新平
- 後藤象二郎
- 副島種臣
など
帰国組
- 岩倉具視
- 木戸孝允
- 大久保利通
など
留守政府の人たちは「朝鮮がまた拒否しやがったら、もう武力を使っちゃおうぜ」っていう考え(征韓論)を持つようになりました。
で、なんでこんな考えを持つようになったのか?というと、留守政府が行った徴兵制や地租改正などの「近代化政策」は、「士族や農民の反発を生む改革」でもあったからです。留守政府の人たちは改革を行なって人々の不満がたまる様子を実際に見ていたわけなので、「朝鮮半島を攻めてエネルギーを国外に向けよう!」(ガス抜きをしよう!)って思ったんだと思います。
ところが帰国組の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通は、欧米諸国のスゴさを実際に見て日本が遅れまくっていることを痛感していたので、「いやいや!日本国内の制度とかを整える方を優先するべきよ!!!(内治優先だよー!)」って主張しました。
つまり、明治新政府内で対立が生じたということです。お互い、「日本っていう国を守ろう!」って考えていて、見据えている方向は同じだったけど、そのやり方で対立することになったわけです。
明治六年の政変(征韓論政変)
結局、帰国組の岩倉具視がうまいことやって(←詳しくは省略)、天皇に「朝鮮半島に行くのはまだダメよ!」って言わせることに成功し、征韓論は挫折しました。
これでカッチーン!ときた征韓派の西郷・板垣・江藤・後藤・副島は、「もうやーめた」って言って(参議を辞職して)、1873年に明治新政府から去ってしまうんです。また、彼らにならって、約600名の官僚が辞職したそうです。
この事件のことを明治六年の政変(征韓論政変)と言います。
そして、政府から去った人たちはさまざまな形で反政府運動を展開していくことになります。(→自由民権運動・士族反乱)
動画でも解説
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