今回の話をざっくり言うと、「1853年のペリー来航をきっかけに日本は日米和親条約を結んで、開国したよ」です。
で、今回はこの内容を
- なぜ開国することになったのか?
- そもそも「開国」ってどういうこと?
の2つに分けて説明します!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
日本はなぜ開国することになったのか?
アメリカが日本に開国を要求した理由
1853年6月、アメリカ人のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、日本に開国を要求しました。これ自体は有名なので多くの人が知っていると思うのですが…ところで、なんでアメリカは日本に開国を要求したのでしょうか?
アメリカは、日本を必要な物資を確保する拠点にしたかったようです。船で航海をする際に、水や食べ物、石炭=燃料を補給できる場所がほしかったわけです。
その理由は主に2つです。
補給地を確保したかった理由(1)
1つ目は、19世紀前半に日本の近くの海などの北太平洋地域で捕鯨漁が盛んになっていた、という理由です。
なんでクジラを捕まえたかったのか?というと、産業革命によって欧米では夜遅くまで仕事するようになって、工業の機械の潤滑油やランプ用の油としてクジラの油(鯨油)が使われていたかららしいです。
んで、クジラを捕まえるための捕鯨船は出港してから1年以上の航海するのが普通だったので、「食料や燃料を日本で買えたら助かるなあ!」って思うようになったわけです。
補給地を確保したかった理由(2)
2つ目は、アメリカが西に西に領土を拡大していって、1848年にメキシコからカリフォルニアを奪って領土が太平洋岸に到達した後、「中国(清)とたくさん貿易をしたい!」って思った、という理由です。
「食料や燃料を日本で補給できたら(特に中国への航路の途中の津軽海峡あたりで補給できたら)助かるなあ!」って思っていたので、「日本に開国してほしい!」って考えたわけです。
※だから日米和親条約では箱館(←津軽海峡に面している場所)を開港することになった!
ペリー来航(1回目:1853年)
ということで、アメリカ大統領のフィルモアっていう人が、東インド艦隊司令長官だったペリーを使節として日本に派遣しました。ペリーが日本の浦賀(@神奈川)に軍艦4隻を率いて来航したのが1853年6月です。
ペリーはかなりグイグイと「開国しなさーい」と要求したようです。
んで、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は、ペリーのあまりにもグイグイくる強硬な態度におされて、「仕方ないから国書は受け取るか…」ってことでフィルモアの国書を受け取ることを決意しました。
ただ、当時は12代将軍の徳川家慶が病気で「幕府としてはすぐに決断はできません!」って感じだったので、「回答は1年待ってくれ」という約束をしてひとまずペリーに帰ってもらうことにしました。「ふう…とりあえずしのいだー」って感じです。
幕府は急いで改革(安政の改革)
でも、1年間しか時間はありません。
幕府として何らかの結論を出さなきゃいけないわけですが、ペリーにお帰りいただいてから10日後、なんと12代将軍の徳川家慶が亡くなってしまいます。
また、次の将軍である徳川家定も病弱で幕府を引っ張っていける人物ではなかったようです。
そこで江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は「もっともっとみんなの意見を聞こう!」って考えて、今まで幕府の政治に参加していなかった人にも意見を求めました。
昔はどうだったか?というと、
もともと江戸幕府は、将軍のもとで老中や若年寄と呼ばれる役職の人々がいろんな政策を考えて実行する、という形で運営がなされていました。
老中や若年寄などの幕府の役職につけるのは原則、譜代大名や旗本です。
- 譜代大名=はじめから徳川氏の家臣だった大名
- 旗本=徳川氏直属の家臣
つまり、古くから将軍に従っていた人(譜代大名や旗本)が幕府の運営にあたっていて、
- 親藩=将軍の一族
- 外様大名=関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名
は幕府の役職にはつけず、幕府の政治からは排除されていたわけです。
ところが「アメリカ人が開国を求めてきた」という超ビッグなイベントを受けて、老中の阿部正弘は今までの幕府運営の方針を変えて
- 朝廷への報告を行い
- 親藩や外様大名にも意見を言わせる
ことにしました。
※この方針転換がもたらしたことについては、次の記事でくわしく説明をします。
また、老中の阿部正弘は「アメリカと戦うことになった場合に備えて、防衛体制を強化せねば!」って考えました。
そこで、今まで武家諸法度で禁止されていた「大きな船を造ること」を認めて、幕府と藩で協力して海軍を作ろうとしました。
あと、江戸湾に砲台(台場)を作りました。品川台場と呼ばれる砲台で、今でもフジテレビがあるお台場に跡が残っています。
このように、ペリーにお帰りいただいた後、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は改革を行いました。この改革のことを安政の改革と言います。
ペリー来航(2回目:1854年)
ところが、なんと半年後の1854年1月にペリーが再び来航しました。今度は軍艦を7隻も率いて品川の近くまで(東京湾の奥深くまで)入ってきたらしいです。
結局、ペリーは品川から横浜まで引き返してくれて、横浜で交渉が始まることになりました。
そして1854年3月、幕府は軍事衝突を避けるために、老中阿部正弘のもとで日米和親条約(神奈川条約)を結びます。これをもって日本は「開国」することになりました。
そもそも「開国」ってどういうこと?(日米和親条約)
ところで、そもそも「開国」ってどういうことを意味するのでしょうか。
江戸時代の「鎖国」がどのようなシステムだったのか?がわからないと「開国」の意味もつかめないので、「鎖国」についてざっくり説明します。
「鎖国」っていうのは、
キリスト教の禁教と貿易の統制を目的に、日本人の海外渡航と帰国を禁止して、外交・貿易を制限した政策
のことです。
「鎖国」といっても、国を完全に閉ざしたわけではありません。国を完全に閉ざしたら貿易の利益をゲットできなくなるので、そんなことはしないんです。
江戸幕府は、外国とつながる4つの窓口を持っていました。
長崎 | 幕府が直接管理。オランダ船・中国船が来航。 |
---|---|
薩摩藩 | 薩摩藩の島津氏が琉球王国を支配。 |
対馬藩 | 対馬藩の宗氏が釜山の倭館で朝鮮と貿易。 |
松前藩 | 松前藩の松前氏が蝦夷地のアイヌと交易。 |
このように、外国との関わり(外交・貿易)を幕府が管理したシステムのことを「鎖国」と言います。
この「鎖国」が、日米和親条約が結ばれたことによって終わります。
日米和親条約
1854年に結ばれた日米和親条約では、2つのことが約束されました。
(1)下田・箱館の開港
まず、日本は「鎖国」の時の4つの窓口以外の窓口を開くことになりました。それが下田と箱館です。
そして、
- 日本はアメリカ船に対して水や食べ物、石炭などを提供する
- アメリカの領事を日本に置く
ことが約束されました。
※領事=外国に駐在して自国民の保護などにあたる外交官の一種
※この時点ではアメリカ人が日本で商売をすること(自由貿易)は認められていません!
日本にやってきた外国船に対して日本が水や食べ物、石炭などを提供する、という内容自体は、実は以前の政策(1842 天保の薪水給与令)とほぼ同じです。ただ、「鎖国」の時と違うのは、
- アメリカ船の来航を認めた
- 水や食べ物、石炭などを提供する場所を決めた
っていう点です。
(2)アメリカに対してだけ最恵国待遇を認める
また、日米和親条約では「アメリカに一方的な最恵国待遇(さいけいこく たいぐう)を与えること」も約束されました。
これは、日本が第三国に対してより有利な待遇を与えた場合、アメリカに対しても同じ待遇を与えることを約束するものです。これを約束することで、アメリカは第三国よりも不利にならずに済むわけです。
ただ、日本だけが強制された(アメリカが第三国により有利な待遇を与えても、日本に対して同じ待遇を与える必要はない)ので、日本にとって不平等な内容でした。
以上が、日米和親条約の内容です。
開国とは
以上のように、日本は「鎖国」の時に開いていた4つの窓口以外の窓口(港)を開き、欧米諸国と国交関係を新しく結び、他国の外交官が日本に常駐するようになりました。このことをもって「日本は開国した」と言います。
ちなみに、1854年にロシアと日露和親条約を結び、下田・箱館に加えて長崎も開港することになりました。
1854年 日露和親条約
(1)開港場の設定
- 下田・箱館に加えて長崎も開港する
(2)国境を定める
- 【千島列島】択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境を定める
- 【樺太】国境を定めず(日露両国民雑居)
まとめ
- アメリカは、日本を必要な物資を確保する拠点にしようとした
- ペリーは軍艦を率いて日本に来航し、開国を要求した
- 幕府は軍事衝突を避けるために、老中阿部正弘のもとで日米和親条約(神奈川条約)を結んだ
- 日米和親条約によって、日本は「鎖国」の時に開いていた4つの窓口以外の窓口(港)を開くことになった
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