本記事では、寛政の改革について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
寛政の改革についてわかりやすく
4つに分けて話をします。
- 寛政の改革とは?
- なぜ寛政の改革が行われたのか?
- 寛政の改革の内容
- 寛政の改革の終わり
寛政の改革とは?
田沼意次が力を失った後に、松平定信が1787年から1793年まで行なった幕政改革を寛政の改革と呼びます。
松平定信って何者だよ!って感じだと思うので軽く説明すると、、、
松平定信はもともと白河藩の藩主(大名)でした。で、この人、天明の飢饉の時に白河藩での被害を最小限に抑えた人で、その手腕を認められて11代将軍徳川家斉(いえなり)を補佐するために老中に就任することになった…ってのが松平定信です。
なぜ寛政の改革が行われたのか?
農村がぐちゃぐちゃになってしまっていたことと、江戸で大規模な打ちこわし(「こいつは悪いことをした」ってみなされた人の家をみんなで破壊する行為)が起こったことが、寛政の改革が行われるようになった主な理由です。
農村がぐちゃぐちゃになってしまっていた
まず、農村がぐちゃぐちゃになってしまっていたことについて。
徳川吉宗による享保の改革で年貢を増やす政策が行われたことと、経済がさらに発展していったことによって、農民の中で階層分化が起こるようになっていました。うまくいってものすごく豊かになる人と、失敗して貧しくなる人とに分かれていった、っていうことです。
経済の発展、特に、商品作物の栽培が奨励されたことによって、農民の階層分化がますます加速したようです。
※商品作物=自分で消費するためじゃなくて市場で売ることを目的として生産する農作物のこと。例えば、木綿や菜種など。
というのも、商品作物の栽培を行うためには、農家がお金を出して購入する肥料である金肥(干鰯など)を手に入れるなどの先行投資が必要だったからです。
肥料を買うためのお金を確保するために、土地を担保にしてお金を借りたりすることもあったようです。
このように、商品作物の栽培を行うためには、収穫物をゲットするよりも前にリスクを負う必要があったんです。
でも、リスクを負ったからと言って(土地を担保にしてお金を借りたり、金肥を買ったりしたとしても)、うまく作物が育つかどうかはわかりません。
うまく作物が育ってくれれば先行投資した分を取り戻すことができますが、もしその年の気候が悪かったりして作物が思ったように採れなかった場合は大打撃を受けてしまうわけです。
こうして、商品作物の栽培に成功してウハウハになった農民と、気候が悪かったりそもそも栽培するのが下手だったりして栽培に失敗してしまう農民とに分かれました。失敗してお金を返せなくなってしまった農民は、担保にした土地を手渡さなきゃいけなくなるわけです。
これが、「経済の発展とともに農民の中で階層分化がますます加速した」ってことです。
豊かな農民は、失敗した農民の土地をゲットして広い土地を持つ地主になることができたけど、一方で、事業に失敗して貧しくなった農民は、
- 小作人(地主から土地の使用権を得て農作業をする→地主に小作料を払う)に転落したり、
- どこかの家で住み込みで働いたり(年季奉公)、
- 日雇いで働いたり(日用稼ぎ)、
- ホームレスになったり(無宿人)、
- ギャンブルで生活費を稼いだり(博徒)
ってことになりました。
で、どうしようもなく貧しくなったら、どうするか?。。。
そのまま餓死する人もいましたが、一方で、「このまま死んでたまるか!」ってことでいろんな行動をする人もいたようです。
例えば、豊かなの農民と貧しい農民の間で対立が生じて、貧しい農民は農村の中で力を持っている(農村の運営をしている)村役人や豪農に対して、「村をちゃんと運営してくれ!」「土地を返してくれ!」って求める運動を起こしたりしました。このような運動のことを村方騒動と言います。
また、貧しくなった農民の中には、村を離れて都市へとさまよっていく人もいました。「都市に行けばなんとかなるかもしれない!」っていう期待を抱いて、です。
このような状況は、江戸幕府や各地の藩にとってはマズイことでした。
村の中で対立が生じると、村が共同体(お互いに助け合う関係性)として機能しにくくなるからです。
将軍や大名は百姓を一人一人直接管理していたわけではありません。村のことは百姓たちの自治に任せていて、将軍や大名は年貢を村全体の責任で納めさせていました(村請制)。だから村の中では、年貢をちゃんと納めるために百姓同士でお互いに助け合っていたはずです。
それなのに百姓同士が対立し始めると、お互いに助け合う関係が壊れてしまいますよね。そうなって困るのは、村から年貢を納めてもらっている将軍や大名です。だから村がぐちゃぐちゃになるのはマズイことなんです。
また、村から離れて都市へと移動する人が出てくると(あと餓死する人が出てくると)、村の人口が減って農業をする労働力が減り、土地が荒れ果ててしまう可能性が高くなります(=農村の荒廃)。これは農業生産の停滞につながるので、やっぱり将軍や大名からしたらマズイことです。
とにかく、将軍や大名からしたら、村は共同体として機能してほしいし(百姓同士はお互いに助け合う関係でいてほしいし)、百姓たちにはちゃんと農業をしてほしいんです。そうすれば、農作物がとれずに飢饉が起きたとしても、村が崩壊することも防げます。
でも、経済の発展とともに農民の中で階層分化が起きてしまった。
貧しい農民は村を離れて都市に流入し、都市の裏通りの集合住宅(棟割長屋)に住んで、日雇いの仕事をして苦しい生活をしたりしていたらしいです。彼らは貧しい生活をしていたので、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の秩序を不安定にさせる存在になってしまいました。
江戸で大規模な打ちこわしが起こった
こういう状況で、飢饉が起きて最悪なことになりました。(天明の飢饉:1872〜88年)
ますます階層分化が加速しますし、食べ物が手に入らなくて死を猛烈に意識することになりますから、行動もさらに過激になります。
で、打ちこわしが起きました。 打ちこわしっていうのは、「こいつが悪いんだ!」ってみなされた人の家などをみんなで破壊する行為のことです。「あいつの家、壊そうぜ」って感じ。すごいですよね。
この打ちこわしが、1787年、江戸や大坂などの主要都市を中心に約30か所で発生しました。これを天明の打ちこわしと言います。
特に江戸での打ちこわしがものすごく激しかったらしく、その強烈な印象が心に焼き付いていた松平定信が「なんとかせねばっ!!!」ってことで行ったのが、寛政の改革です。
いったん、ここまでをまとめます。
・徳川吉宗による享保の改革で年貢を増やす政策が行われたことと、経済がさらに発展していったことによって、農民の中で階層分化が起こるようになっていた。
→江戸幕府にとって超重要な存在である村で、共同体(お互いに助け合う関係性)としてのあり方が揺らいできていた。
・貧しくなった農民の中には、村を離れて都市へとさまよっていく人もいた。
→農村を離れて都市に流入した人は、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の秩序を不安定にさせる存在だった。
・そんな状況で、天明の飢饉が起きて、1787年には天明の打ちこわしが発生した。
→その様子を見た松平定信は「なんとかせねばっ!!!」って思って、寛政の改革を行なった。
では、ここからは寛政の改革で行われた具体的な政策について説明します。
寛政の改革の内容
松平定信は「田畑が荒廃した村を復興したい!」「打ちこわしが発生しないようにしたい!」って考えました。
ってことで、政策を打ち出します。まずは、村の復興政策についてです。
(1)村の復興政策
3つの方向性から、田畑が荒廃した村の復興を実現しようとしました。
- 人を増やす
- 凶作の時でも耐えられるようにする
- 荒れた田畑を再開発する
1つ目が、「人を増やす」という方向性です。人が農村を離れて都市に流れ込んでいってしまっていたので、これをなんとかしようとしたんです。
で、行なったのが「旧里帰農令」という政策。
旧里帰農令=江戸に出てきていた農民に対し、旅費や農具代を与えて帰村をうながす
2つ目が、「凶作の時でも耐えられるようにする」という方向性です。凶作の時でも村が共同体として機能していれば(=お互いに助け合うことができれば)、農村がぐちゃぐちゃになることはないわけです。
ってことで行なったのが、「囲米」(かこいまい)という政策。
囲米=凶作に備えて、各地に社倉・義倉をつくらせて米を備蓄させる
3つ目が、「荒れた田畑を再開発する」という方向性です。お金を貸して、荒れた土地の再開発を支援したみたいです。
(2)江戸の都市政策
次に、江戸の都市政策についてです。
「打ちこわしが発生しないようにしたい!」って考えた松平定信は、「どうして打ちこわしが発生するんだろう?」って考えたはずです。で、「人間は我慢の限界に達した時に破壊行動を起こす生き物なんだ!」って考えたんだと思います。
ってことで、3つの方向性から、江戸の都市政策を行いました。
- 我慢の限界に達しやすい人を排除する
- 我慢の限界に達しやすい人を成長させる
- トラブル時に我慢の限界に達しないようにする
1つ目が、「我慢の限界に達しやすい人を排除する」という方向性です。そもそも「我慢の限界に達しやすい人」が村から江戸に流れ込んできているのが問題なんだ!って考えたわけですね。
ってことで、「旧里帰農令」という政策を行います。
旧里帰農令=江戸に出てきていた農民に対し、旅費や農具代を与えて帰村をうながす
2つ目が、「我慢の限界に達しやすい人を成長させる」という方向性です。江戸にいる「我慢の限界に達しやすい人」(=貧しい人)がいたとしても、その人を「我慢の限界に達しにくい人」に成長させればOKですよね。
ってことで、「人足寄場」と言う施設を設置しました。
人足寄場=無宿人(≒ホームレス)などを強制収容して、社会復帰のための職業指導をおこなう施設(@江戸の石川島)
3つ目が、「トラブル時に我慢の限界に達しないようにする」という方向性です。飢饉や災害が起きた時でも、我慢の限界に達しないように備えておけばOKですよね。
ってことで、「七分積金」という政策を行いました。
七分積金=町々に町費節約を命じ、節約分の7割を貯金して、飢饉などの緊急時に貧民を救済するために活用
(3)その他の政策
その他の政策についても説明します。
- 棄捐令=旗本や御家人が札差からしていた借金を帳消しにする
- 寛政異学の禁=湯島の昌平坂学問所での朱子学以外の講義や研究を禁じる
- 出版統制=幕政を批判する出版を取り締まる
④寛政の改革の終わり
こんな感じで松平定信は寛政の改革を行なったんですけど、
- 政策の内容が全体として厳しいものだったので、人々の不満が高まった
- 尊号一件という事件で、11代将軍徳川家斉と松平定信が対立した
という理由で、松平定信は1793年に老中を辞任させられてしまいました。
寛政の改革は6年ほどで挫折したのです。
まとめ
原因・背景
・徳川吉宗による享保の改革で年貢を増やす政策が行われたことと、経済がさらに発展していったことによって、農民の中で階層分化が起こるようになっていた。
→江戸幕府にとって超重要な存在である村で、共同体(お互いに助け合う関係性)としてのあり方が揺らいできていた。
・貧しくなった農民の中には、村を離れて都市へとさまよっていく人もいた。
→農村を離れて都市に流入した人は、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の秩序を不安定にさせる存在だった。
・そんな状況で、天明の飢饉が起きて、1787年には天明の打ちこわしが発生した。
→その様子を見た松平定信は「なんとかせねばっ!!!」って思って、寛政の改革を行なった。
内容
・3つの方向性から、田畑が荒廃した村の復興を実現しようとした。
- 人を増やす→ 旧里帰農令
- 凶作の時でも耐えられるようにする→ 囲米
- 荒れた田畑を再開発する
・3つの方向性から、江戸の都市政策を行なった。
- 我慢の限界に達しやすい人を排除する→旧里帰農令
- 我慢の限界に達しやすい人を成長させる→人足寄場
- トラブル時に我慢の限界に達しないようにする→七分積金
結果
・松平定信は1793年に失脚して、寛政の改革は6年ほどで挫折
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