日本史

徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史37-1】

 

教科書ではちょっと影が薄い、4代将軍の徳川家綱と5代将軍の徳川綱吉の時代の話をします!

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

綱吉生類憐れみの令ってのを出して犬公方(いぬくぼう)っていうあだ名がつけられたんですけど、彼は一体何をしたかったのか?もわかるように頑張って説明します!

 

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望岡 慶
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徳川家綱・綱吉の政治についてわかりやすく

 

先に結論を言います!

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

システムが整って江戸幕府の政治は安定して、農業が発展したよ。

でも、戦国時代以来の命を軽く扱ったり武力で自分を高めようとしたりする風潮が残っていたから、江戸幕府は平和で秩序ある時代に転換しようとしたよ。

あと、江戸幕府はだんだん財政難になっていったよ。

これが結論です。長いですね。

 

※財政難については次の記事で説明をします。

江戸幕府の財政と農業の発展について【日本史37-2】

 

 

平和で秩序ある時代への転換

1651年に3代将軍の徳川家光が亡くなって、家綱が4代目将軍になりました。

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

前回までで説明したように、徳川家光の時代までで江戸幕府の仕組みが一通り整いました。

 

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

だから、4代将軍家綱の時代は完全に何も問題がなかった、、、、っていうわけではもちろんなくて、武家社会の中にはまだ厄介な問題が残っていました

それが、命を軽く扱ったり武力で自分を高めようとしたりする風潮が残っていたという問題。江戸幕府の仕組みが一通り整ったとはいえ、戦国時代以来の雰囲気がまだ武家社会には残っていたということです。

 

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

江戸幕府はこの問題を解消しようとしました。

「これからの時代は武力じゃなくて礼儀だぞ。忠誠心や親孝行の気持ちや身の程(分際)をわきまえた振る舞いが、武士にとって大事なことなんだぞ。」って感じで、平和で秩序ある時代に切り替えようとしたんです。

 

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

具体的に3つ説明します。

 

(1)牢人の問題

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

牢人っていうのは、主人を失った武士のことです。牢人は、例えるなら失業した武士って感じ。主人がいないので御恩をもらうことができず、牢人のなかには生活が苦しくなっていく人もいました。

 

戦乱が頻繁に起きていた時代だったら、大名はたくさんの家臣(家来)を抱える=たくさんの戦力を抱えることに意味がありますよね。なので、大名は牢人(主人を失った武士)を新たな家臣として迎えることがありました。

 

が、江戸幕府の支配が確立して戦乱がおさまると、大名は新たな家臣を迎える必要がなくなります。つまり、牢人は新たに仕える主人を見つけるのが難しくなったんです。

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

なので、牢人は戦乱を待ち望むようになりました

実際、1651年に3代将軍徳川家光が死去した直後、由井正雪という人が「幕府を倒すぞ!」っていう計画を立てた際、不満を持っていた牢人たちがその計画のもとに結構集まったみたいなんです(1651 慶安の変)

 

この事件は幕府にとってかなり衝撃的で、「牢人が発生しないように対策しなきゃいかんぞ!」ってことになった。

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

んで、牢人の発生を抑えるために行われた政策が、1651年の末期養子の禁の緩和です。これは、死ぬ間際に養子をとること(末期養子)を50歳未満の大名に認めるという政策です。

 

跡継ぎがいない状態で大名が死んでしまうと、大名家が存続できなくてその大名家に仕えていた武士たちが「主人を失った武士」(=牢人)になってしまうんですよ。

 

なんですけど、江戸幕府の支配の仕組みは、将軍と大名の主従関係がベースになっていますから、

「もうすぐ死にそう!」って時に大名が慌てて養子をとって跡を継ぐ人を確保する…ってのは認めていなかったんです。将軍からしたら「そんな急に現れた人と主従関係なんか結べませんよ」って感じなので

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

ですが、実際には跡継ぎが決まらないまま大名が死んでしまって、その大名家が「お家断絶」になってしまうことが結構あった。そうなると、牢人が発生して、彼らが社会を不安定にさせる恐れがあった。

ってことで、江戸幕府は50歳未満の大名に限って死ぬ間際に養子をとることを認めたんです。これが末期養子の禁の緩和。

大名家が存続しやすくすることで牢人の発生(戦乱を待ち望む人々の発生)を抑えようとしたわけです。

 

 

(2)かぶき者の問題

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

かぶき者っていうのは、「平和?何それ?俺はおとなしくはしないぜ!」って感じで乱暴な振る舞いをする人々のことです。ヤンキーみたいなもんです。

戦国時代の雰囲気を引きずっているかのようなかぶき者を、江戸幕府は取り締まりました。

 

 

(3)命を軽く扱う風潮の問題

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

江戸時代の最初の頃までは、主人が死んだ後、家臣が後を追って切腹すること(=殉死)が美しいこととされていて、庶民も「主人が死んだ後、切腹する人は何人いるかなあ」って殉死を期待していたらしいです。

武士やかぶき者に限らず庶民も、命を軽く扱っていたわけです。

 

そこで、江戸幕府は1663年に殉死を禁止しました。奉公の対象は主人個人じゃなくて、主人の家(代々の主人)だぞ(だから主人が死んでも切腹するなよ)ってことにしたんです。

 

【日本史37-1】徳川家綱・綱吉の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

また、その後の5代将軍徳川綱吉は、服忌令(ぶっきれい:1684)や生類憐みの令(1685)によって、死や血を忌み嫌う風潮を作っていきました

服忌令:近親者が死んだ時に喪に服したり忌引をする日数を定めた

生類憐みの令:犬などの動物を殺すことを禁止した

 

 

これらの政策の結果、死んだ牛馬を片づける仕事をしている人は「えた」と呼ばれてより差別されていくようになってしまったのですが、

戦国時代以来の命を軽く扱ったり武力で自分を高めようとしたりする風潮が完全に否定されて、平和で秩序ある時代に切り替わっていくことになりました。

 

日本史の勉強をしていると4代将軍家綱と5代将軍綱吉の時代はイマイチつかみにくいって思うかもしれませんが、どちらも「平和で秩序ある時代に転換しようとした時期」って捉えるとわかりやすいと思います!!!

 

望岡 慶
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最後までお読みいただきありがとうございました!

江戸幕府の財政と農業の発展について

 

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