戦後日本の安全保障の歴史についてまとめました!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
戦後日本の安全保障の歴史
非軍事化政策
GHQは「日本が再び戦争をできないようにしよう!」って考えて、非軍事化政策を実行した。
- 戦争犯罪人を裁判・処罰
- 陸海軍の解体
- 兵器や軍需関連の技術を没収・破壊
- 戦争中のリーダーを公職から追放
- 憲法の改正
- 国家神道の廃止
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冷戦が始まる→占領政策を転換
第二次世界対戦後、アメリカを中心とする資本主義の西側陣営と、ソ連を中心とする社会主義の東側陣営との間で、冷戦が激化した。
冷戦はアジアにも及んだ。1948年には北緯38度線で分断された南北朝鮮が成立し、1949年には毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立して、蔣介石は台湾にのがれた。
冷戦が激化すると、アメリカは占領政策を転換し、日本の経済復興を重視するようになった。
(理由)日本を「共産主義の防壁」とし、そのためには資本主義国として成功させることが必要だと考えた。
朝鮮戦争→警察予備隊の新設
南北分裂状態となった朝鮮半島で、1950年6月、北朝鮮が北緯38度線をこえて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。日本は、国連軍(在日アメリカ軍)の出撃・補給基地となった。
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在日アメリカ軍の朝鮮への出動による軍事的空白をうめるために、1950年7月、マッカーサーの指令によって警察予備隊が新設された(「再軍備」)。
旧軍人の公職追放解除→旧軍人は警察予備隊に採用されていく
旧日米安保条約
朝鮮戦争によって、アメリカにとっての日本の戦略的な重要性が高まると、アメリカは、占領への反発をさけつつ、日本を西側陣営の友好国とするために、「寛大な講和」の方針を決意した。
※寛大な講和:多くの連合国は賠償請求権を放棄(←アメリカは日本経済の復興を優先した)
※日本も「再軍備の負担を避けて経済復興に全力を注ごう!」って考えた(→西側諸国と講和)
こうして、吉田茂内閣は1951年9月から開催されたサンフランシスコ講和会議に参加し、48カ国とサンフランシスコ平和条約を結んだ。1952年4月28日に条約が発効し、日本は独立を回復、約7年の連合国による日本占領は終了した。
平和条約の調印と同じ日に日米安全保障条約が調印された。
1952 日米安全保障条約
(不平等な点)
- 日本の要請に基づいてアメリカ軍が日本に駐留する
- アメリカ軍に日本防衛義務なし
(不備があった点)
- 有効期限が書かれていない
具体的な事項は日米間の行政協定で決められた。
日米行政協定
- 駐留アメリカ軍に対して基地を提供し、駐留経費を負担する
- 軍人とその家族が日本国内で犯す犯罪はすべてアメリカ側が裁判権を行使する
アメリカの狙い
- 「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を獲得」(byダレス)
- 極東における平和と安全を確保
自衛隊発足
平和条約発効とともに海上警備隊が新設され、警察予備隊は保安隊に改組された。
また、朝鮮休戦協定が結ばれた後、アメリカは日本の再軍備を実現し、地域防衛を義務づけようとした(アメリカ軍の機能を代替させようとした)。
→1954年のMSA協定締結にもとづき、日本政府は自衛隊を発足させた。
スターリンの死と緊張緩和
1953年にソ連のスターリンが死去すると、ソ連は平和共存路線へと転換した(→米ソを中心とする二大陣営の緊張緩和が起こった)。
また、アジア・アフリカの新しく独立した国々が平和共存を求め始めた(例:1955年のアジア・アフリカ会議)。
憲法改正・再軍備を目指す政権の誕生(55年体制)
アメリカや財界の要請を背景に、保守合同が進み、自由民主党が結成される(社会党政権の出現を防ぐ!)
自由民主党
- 安定政権を維持できるものの憲法改正は実現できない3分の2弱の議席を確保。
- 初代総裁:鳩山一郎
鳩山一郎内閣はアメリカから自立した外交を展開しようとした(「自主外交」)。
1956 日ソ共同宣言調印
→日本の加盟に対して拒否権を発動してきたソ連も加盟賛成にまわり、1956年に国連加盟が実現。
1957 ソ連が世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功
アメリカは「日本がアメリカから離れて中立化するかも…」って警戒した。
安保改定と新日米安保条約
岸信介内閣はアメリカ重視の姿勢を復活させた。
その上で日米関係をより対等なものに変えていこうとして、1960年に日米安全保障条約を改定した。
1960新安保条約(日米相互協力及び安全保障条約)
- アメリカ軍の日本防衛義務を明記
- 有効期限は10年(以後は自動延長)
- 在日アメリカ軍の装備変更・軍事行動に関する事前協議制を定めた
※在日アメリカ軍が作戦展開できる範囲=極東(フィリピン以北)
新安保締結にともなって、日米行政協定を日米地位協定に改定。
60年安保闘争
「新条約によってアメリカの世界戦略に組み込まれてしまう…!」って警戒した社会党などが反対運動を展開
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当初、運動はあまり盛り上がらなかった
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しかし、1960年5月、岸内閣が条約承認を衆議院で強行採決
- 衆議院に警官隊を導入
- 予定されていたアメリカ大統領の訪日に間に合わせるため
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現代史最大の政治闘争へと発展
- 巨大なデモが国会を取り巻く
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条約批准案は参議院の議決を経ないまま自然成立(岸内閣は総辞職)
続きは執筆中
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