東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣の重要ポイントを説明します。
- 皇族であり陸軍大将であった人がなぜ敗戦後の首相になったのか?(皇族内閣は史上唯一)
- 東久邇宮内閣のもとで実行された政策と、実行されなかった政策
東久邇宮稔彦王とは
東久邇宮稔彦王について、おさえておくべきポイントは
東久邇宮稔彦が皇族であり、かつ陸軍大将であることです。
東久邇宮稔彦が首相となった東久邇宮内閣は、日本史上唯一の皇族内閣となりました。
※陸軍大将が首相となった事例はいくつかあります(各自確認するべし!)
※「宮」とは何なのか?については宮家に関する動画で説明したので、ぜひこちらもご覧ください!
皇族が政治の世界に近づくことはずっと避けられていて、明治維新後ずっと皇族が首相に就任することはありませんでした。
が、敗戦後「今、首相としてリーダーシップを発揮できるのは皇族しかいないんじゃないか」ということで、皇族である東久邇宮稔彦が内閣を組織することになったのです。
では、なぜ皇族が首相を務めることが求められたのでしょうか?
皇族&陸軍大将の東久邇宮稔彦が敗戦後の首相になった理由
敗戦時の最大の課題は「日本人の暴走・暴動を未然に防ぐ」ことです。
鈴木貫太郎内閣がポツダム宣言を受諾し、昭和天皇が玉音放送で太平洋戦争の終結を国民に伝えたわけですが、だからと言って「戦争の終結」は簡単なことではありません。
なぜなら、ポツダム宣言の内容を実行することはすなわち、ついさっきまで敵だったアメリカ軍などが日本本土に足を踏み入れて、日本を占領することを意味するからです。
ポツダム宣言(抜粋)
6. 日本国民を欺いて、世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7. 第6条の新秩序が確立され、日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるに至るまで、連合国は日本国領域内の諸地点を占領するであろう。
8. カイロ宣言の条項は履行されなければならず、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我々の決定する諸小島に限定されることになる。
9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
日本列島はもちろん、東アジアや東南アジア、太平洋地域には、ついさっきまで戦争をしていた人が大量にいます。みんな武器を持っています。
1945年8月17日に鈴木貫太郎内閣が総辞職をして(詳しい経緯は省略)、次の内閣のもとでポツダム宣言の内容を実行していくことになりますが、、、
「武器を置け!」「アメリカには手を出すな!」という命令があったとしても、暴動が起きるかもしれない。
血気盛んな軍や国民が、アメリカ軍に手を出すかもしれない。
でも、そんなことは絶対にあってはならない。そんなことになったら徹底的にボコボコにされかねません。
負けを認めた以上、潔く、おとなしく武器を置くべきなんです。
日本人の暴走・暴動を未然に防ぎ、敗戦処理をスムーズに実行するのには、ものすごいリーダーシップが必要です。
日本国民みんなが言うことを聞く、強力でキラキラな人材が首相になることが必要。
「敗戦後の首相」を誰にするか?はものすごく重要。
そこで光が当てられたのが、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこ おう)でした。
東久邇宮稔彦王は皇族かつ陸軍大将です。日本国民に対してリーダーシップを発揮する上では申し分のない属性。
よって東久邇宮稔彦王に対して「終戦にともなう手続きをスムーズにできるはず!」「軍の暴走を防げるはず!」って期待がかけられたのです。
※当時の日本人が皇族に対して抱いていた畏怖・尊敬の感情は現代よりも相当強かったのでしょう
※ところで、具体的にどのような人たちが「彼が次の首相になるしかない!」って考え、決定を下したのでしょうか…?
(どうやら首相就任にあたって一回拒否した・・・という一悶着はあったようですが、)
ポツダム宣言受諾の3日後、皇族であり、かつ陸軍大将でもあった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこ おう)が首相になりました。
※東久邇宮内閣は憲政史上唯一の皇族内閣です
東久邇宮稔彦内閣(1945.8〜1945.10)の下での政策
東久邇宮内閣の方針・政策の具体的な中身は3つおさえておけばOKだと思います。
一億総懺悔
東久邇宮稔彦王は就任にあたって、いわゆる「一億総懺悔」発言をしました。
「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。」
※当時、日本列島の日本人は約6000万人だったらしいんですけど、「一億」ってのは朝鮮や台湾の住民なども合わせた数だったようです。
この一億総懺悔発言は、日本の戦争責任が誰にあるのか?が曖昧になってしまうという意味で、日本の戦争責任を当時の政府・軍のトップに負わせる方針だったGHQからしたら困ったものでした。
進駐受け入れ・軍の解体・降伏文書への調印
東久邇宮稔彦内閣は以下のことをスムーズに実行しました。
- 連合国軍が日本に入ってくること(進駐受け入れ)
- 陸海軍の解体
- 降伏文書への調印
これにはGHQも「Good job!」って感じだったでしょう。
ところが、東久邇宮稔彦内閣が掲げた「国体護持」という方針がGHQとの決定的な対立を生むこととなりました。
国体護持
また、東久邇宮稔彦内閣はなんとしても天皇制を維持して、今までの国のあり方を壊さないようにしようとしました(国体護持)。
なので、天皇制を打倒しうる共産主義革命を抑えるために、治安維持法に基づく弾圧体制を維持したい!と考えていたようです。
GHQとの対立
ですが、GHQは1945年10月に「政治や宗教に関してどんな考えを持ってもOKだよってことを認めて、人々の人権を確保せよ」っていう指令を出しました(人権指令)。
人権指令への反発
連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)
人権指令
- 治安維持法や特別高等警察(特高)を廃止せよ!
- 共産党員などの政治犯をすぐに釈放せよ!
- 内務大臣・警察関係の首脳部・弾圧活動に関係のある官吏を罷免せよ!
ですがこれは、東久邇宮稔彦内閣からしたら「ちょっと待ってくれよ」って感じです。
彼は国体護持の方針を掲げていて、「なんとしても天皇制を維持して、今までの国のあり方を壊さないようにしたい!」「天皇制を打倒しうる共産主義は認められない!」って考えていたからです。
※内務大臣の罷免は内閣不信任ということでもある
※弾圧活動に関係のある官吏まですべて罷免すると、約4,000人にも及んでしまう
つまり、アメリカ的な自由の価値観と、これまでの日本的な価値観とが衝突したわけです。
※アメリカ的な価値観との衝突って、いろんな国で起きてますよね…
総辞職へ
結局、東久邇宮稔彦内閣は「人権指令は実行できん…」ってことで総辞職。
成立から54日で退陣した、ものすごく短命な内閣でした。史上最短です。
幣原喜重郎内閣へ
東久邇宮稔彦王内閣が総辞職した後、新たに幣原喜重郎内閣が成立。
1945年10月、幣原首相に対してマッカーサーは「5つの改革をせよ!」って指示します(五大改革指令)。
- 婦人参政権の付与
- 労働組合の結成奨励
- 教育制度の自由主義的改革
- 秘密警察などの廃止
- 経済機構の民主化
この指令を受けて、日本政府は様々な政策をどんどん実行していきました。
動画でも確認
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参考文献
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