「初期議会ってよくわからん!」って人に向けて、
- 初期議会とは何なのか?
- 初期議会がなんで大事なのか?(なんで教科書にガッツリ書かれているのか?)
- 初期議会のポイント
について説明します!
初期議会とは?
まず初期議会って何なのか?ですが、、、
「1890年の第一議会から日清戦争直前の第六議会まで」のことを初期議会と言います。
どういうことかというと、
1890年に日本で初めて衆議院議員選挙が行われて国会(国家の議会)ができて、
→日本の未来について、「一部のエライ人だけで決める仕組み」から「普通の人々も意見を言える=参加できる仕組み」になったんだけど、、、
→じゃあそういう仕組みができてすぐの頃はどんなことが起きたの?
→その初期の時期を「初期議会」って言葉でまとめて説明しちゃおう!
ってことです。
例えるんだったら、「今までは学校のことを教員だけで決めていたけど、これからは生徒の代表の意見も聞くよ。代表の生徒は教員のことを思いっきり批判してもいいよ。」ってなった直後に、教員と生徒の間でどんなやりとりが行われたのか?を説明するよ、って感じです。
初期議会について教科書にガッツリ書かれている理由
初期議会について教科書にガッツリ書かれているのは、
「国の政治に人々の意見を取り入れる仕組みってうまくいったの?」
ってのを説明するためです。
ちょっと遡って説明をすると、
国会が開かれる前は何年にもわたって自由民権運動が行われていました。「政府は人々の意見を聞け!国会を作れ!」って要求する運動です。
どんな歴史の教科書でも(小学校・中学校・高校の教科書すべてで)、自由民権運動の話はガッツリ書かれていますよね。
で、(途中経過は省略しますが、)政府は「1890年に国会を開くよ」って約束をして、1890年に約束通り国会が開かれることになったわけです。
となると、「要求通り、約束通り開かれた国会はちゃんと機能したの??」ってのを説明する必要がありますよね。
作って終わりじゃなくて、作った後の方が大事なわけですから。
ということで、教科書ではわざわざ「初期議会」っていう見出しをつけてガッツリ説明してくれているわけです。
※ただ、中学校の教科書には初期議会についてガッツリ書かれていないので、ちょっと不親切だなあって正直思います。
初期議会のポイント
では、ここからは初期議会を理解するうえでのポイントについて説明していきます!
内閣のメンバーは薩長出身者中心
内閣のメンバーは、薩摩藩・長州藩出身者を中心とする「明治維新を成し遂げた人たち(藩閥政治家)」でした。
このような内閣のことを藩閥政府と言います。
一方、帝国議会の衆議院の議員は、選挙によって選ばれた民衆の代表です(←限られた人にしか選挙権は認められていなかったけど)。
民衆は税を納めたくない
んで、民衆は
- 国の細かいところまではわかっていないし、
- 国がたくさんお金を使うとムダ遣いだと感じるし、
- 税を納めたくない。
なので、民衆の代表である衆議院の議員は、基本的に「ムダなお金は使うな!」「税を少なくしろ!」って政府に要求します。
このあたりは現代と同じです。
特に軍事費に関しては、人々は厳しいです。
国の防衛のためのお金って絶対に必要で、かなりの額のお金がかかりますが、政府は国の防衛についてペラペラと何でもかんでもしゃべるわけにはいきません。
全部しゃべってしまったら、国の防衛のことが他の国にも全部バレバレになってしまうからです。
つまり、軍事費に関するくわしい情報は国民に伝えられない極秘情報であることが多いんです。
でも、国民からしたらそんなこと知ったこっちゃない。
政府が「軍事費としてこれだけのお金を使いたい!」って要求してきた時に「なんでそんなにお金が必要なんだよ!ムダ遣いしてるだろ!ちゃんと説明しろ」って国民は怒るわけですよ。
軍事費って「国民からしたらよくわからない費用」の代表みたいなものなんです。
まあ確かにムダ遣いしている部分もあるのかもしれないんですけど、
政府は国の細かいところまでちゃんとわかっていて、ちゃんとした根拠にもとづいて「軍事費としてこれだけのお金を使いたい!」って要求しているはずです。
でも、国会で極秘情報についてくわしく説明するわけにはいかないから、「うぐぐ、、、頼むから予算案を認めてくれ、、頼む、、、」ってなるわけです。
初期議会もこんな感じです。
大変な時期に帝国議会がスタートした
んで、帝国議会がスタートした時期は、
まさに軍事費の増大が必要な大変な時期でした。
日本と中国(清)は朝鮮をめぐって争っていて、「中国(清)との戦争がいつ起こってもおかしくないぞ…」っていう時期に帝国議会が始まったんです。
関連:日清戦争について
1884年:甲申事変
朝鮮の親日勢力が政権を奪い取ろうとしたけど、中国軍が来て失敗した事件。この事件によって、日本と中国との関係がものすごく悪化した。
1885年:天津条約
日中関係の悪化をなんとかするために、日本政府は伊藤博文を中国に送って、中国代表の李鴻章と話し合って条約を結んだ。内容は
- 日本軍・中国軍がともに朝鮮から撤退する
- 次に朝鮮に出兵する際には、お互いに事前通告しようね(=次が本番だぞ)
この天津条約の内容は重要です。例えば朝鮮国内で何かが起きて「助けてー」って中国に要求したら、中国は日本に対して「これから朝鮮に軍隊を送るよ」って伝えるわけです。
そしたら、「朝鮮は俺のものなんだよー!中国にとられてたまるかあー!」って感じの日本も朝鮮に出兵するわけです。
こうなったら、日本軍と中国軍の間でバトルが起きて日清戦争に発展するのは簡単です。
※実際、1894年に朝鮮で甲午農民戦争というイザコザが起き、朝鮮は中国に助けを求めて、中国は天津条約に基づいて日本に通知し、日本も朝鮮に出兵し、そして日清戦争が始まりました。
このように、1880年代半ばから「中国(清)との戦争がいつ起こってもおかしくないぞ…」っていう大変な時期に突入したわけですが、
そんな時期に帝国議会がスタートしたんです。
政府からしたら「中国との戦争のために、絶対に軍事費が必要!頼むから軍事費を拡大させてくれ!お願いーーーー」って感じ。
でも人々はそんなこと知ったこっちゃありません。自分が納める税金が少なくなることの方が大事なんです。
ということで、初期議会では内閣と議会の激しい対立が起こりました。
内閣と議会の関係
ただ、内閣と議会はお互いに歩み寄らなければいけない運命にありました。
というのも、国の予算の成立には帝国議会の同意(協賛)が必要だった一方で、大日本帝国憲法には「内閣が作った予算案を守る仕組み」があったからです。
【内閣が作った予算案を守る仕組み】
- 憲法上の大権に基づく既定の歳出、及び法律の結果により、又は法律上政府の義務に属する歳出は、政府の同意なく帝国議会がこれを廃除又は削減することはできない。(第67条)
- 帝国議会において、予算を議定しない、又は予算が成立に至らないときは、政府は、前年度の予算を施行しなければならない。(第71条)
内閣は、自らの同意なく予算を削減されることはないし、最悪、前年度の予算を執行することができるわけです。
なので、議会がいくら「ムダ遣いするな!予算を減らせ!」って言っても、内閣がそっぽ向けばその要求は通りません。
議会の要求を実現させるためには、議会は内閣にある程度歩み寄る必要があるわけです。
一方、内閣は、議会に認めてもらわなくても前年度の予算を執行できるとはいえ、予算を拡大しようと思ったら、予算案を議会に認めてもらう必要があります。
例えば軍事費を増やしたい場合は、内閣は議会にある程度歩み寄る必要があるわけです。
ここまで理解すれば、初期議会の流れについて理解するのはそんなに難しくありません!
初期議会の流れ・内容
大日本帝国憲法発布(1889.2)
1889年2月に大日本帝国憲法の内容が公表されました。
その翌日に、当時の首相だった黒田清隆って人は「政府は政党に左右されずに政策を行うからね!」っていう宣言をします。先に釘を刺したわけです。
「生徒の意見を聞く仕組みを作ったけど、学校は生徒の意見に左右されずに教員の考えで運営していくからね。だって生徒は学校のことよくわかってないでしょ。」みたいな感じです。
この「政府は政党に左右されずに政策を行うからね!」っていう立場のことを超然主義と言います。
第1回衆議院議員総選挙(1890.7)
1890年7月に第1回衆議院議員総選挙が行われました。
過去に自由民権運動をしていた人々(「政府は人々の意見を聞け!国会を作れ!」って反政府運動をしていた人々)だけでなく、政府を支持する人々も衆議院議員に立候補したわけですが、
結果は、過去に自由民権運動をしていた人々が作った政党(民党)の勝利でした。民党の立憲自由党・立憲改進党が衆議院の過半数を占めたんです。
総議席=300
- 立憲自由党=130
- 立憲改進党=41
第一議会(1890.11〜1891.2)
衆議院議員が決まったのを受けて、いよいよ1回目の帝国議会が開かれました。
で、予想通り内閣と議会は対立します。
第1次山県有朋内閣は「軍事費を増やすよ!」っていう予算案を衆議院に提出したんですけど(←中国との戦争の可能性があったので、軍備拡張は当然)、
民党は「民力休養・政費節減」を主張して政府を攻撃したんです。
- 民力休養=地租など租税負担の軽減
- 政費節減=予算案の削減
結局、山県有朋は自由党の一部を丸め込んで、軍拡予算をなんとか成立させました。
第二議会(1891.11〜1891.12)
次の年の2回目の帝国議会でも、やっぱり内閣と議会は対立しました。
民党は、軍艦建造費などの削減を求めました。
これに対して、第1次松方正義内閣のメンバーである樺山資紀海軍大臣が「薩摩藩・長州藩出身者を中心とする藩閥政府がここまで国を引っ張ってきたんだろーーーーー!」って演説してしまって、民党から猛反発をくらいます。
結果、松方正義首相は衆議院解散を初めて行いました。
第2回衆議院議員総選挙(1892.2)
「絶対に民党に過半数をとられてたまるかあああああ」ってことで、
内務大臣品川弥二郎らは激しい選挙干渉を行なって、政府支持者を当選させようとしましたが、結果、またもや民党が勝利します。
第三議会(1892.5〜1892.6)
通常の帝国議会は11〜12月にスタートしますが、第3回目の議会は通常の帝国議会とは別に特別会として開催されました。
第三議会でも、やっぱり予算案をめぐって内閣と議会は対立します(←直前の総選挙で選挙干渉が行われたことへの非難も)。
そして内閣のメンバー同士の対立も生じてしまい、結局、松方内閣は総辞職しました。
「元勲総出」の第2次伊藤博文内閣が成立(1892.8〜1896.9)
松方内閣が倒れた後、第2次伊藤博文内閣が成立しました。
この内閣は、メンバーが「明治維新を成し遂げた人たち(藩閥政治家)」の大物(=元勲)ばかりだったので、「元勲内閣」を呼ばれました。
「なんとしても政府が求める法律・予算を成立させるぞ」っていう意気込みが表れた内閣です。
第四議会(1892.11〜1893.2)
そして4回目の議会では、内閣と議会の歩み寄りが行われました。
伊藤博文は「民党に歩み寄らないと、政府が望むものは実現できないぞ…」って思っていたので、一番勢力が強かった自由党と接近します。
そして、明治天皇に「宮廷の費用を節約したり、官僚の給料を減らしたりして、これらのお金を軍艦の建造費にあてるよ!だから議会も政府に協力してね」ってていう文書を出してもらいます(和衷協同の詔書)。
この結果、民党も「政府と協力しよう」って思うようになって、予算案が修正・可決され、政府は海軍軍備の拡張に成功しました。
そしてこの後も、第2次伊藤博文内閣と自由党との連携が続きました。
- 自由党は、「自分たちの要求を実現させるためには、内閣に歩み寄る必要がある」と気づき、
- 内閣も、「自分たちの望む政策を実現するためには、民党に歩み寄る必要がある」って気づいたわけです。
※ここが初期議会のクライマックスだと思います。これ以降は「ふーん、そうなのか」くらいで軽く流しちゃってOKだと思います(すんまそん!)。
第五議会(1893.11〜1893.12)
政府と自由党の接近に反発した他の民党(立憲改進党)が、政府を支持していた政党(吏党)である国民協会と協力して、条約改正問題で政府を攻撃しました(対外硬派連合)。
※ちょうど、陸奥宗光外務大臣のもとで条約改正交渉が行われている最中でした。
第3回衆議院議員総選挙(1894.3)
3回目の衆議院議員総選挙が行われました。結果は省略します!
第六議会(1894.5〜1894.6)
そして6回目の議会でも、立憲改進党を中心に、政府の外交方針への攻撃が行われました。
んで、いよいよ1894年8月に日清戦争がスタートします。日清戦争については次の記事で説明します!
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