院政について説明をします!
この記事を読むと
- 院政が始まった理由がわかる
- 院政とは何なのか?がわかる
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
院政
院政について話をします。
今回話をする時代は、平安時代です。
院政とは、「天皇の位を譲った上皇が、自分の子孫にあたる天皇をサポートする形で権力を握った政治のあり方」のことです。
この院政が行われる前は摂関政治が行われていましたが、なんで摂関政治が終わって院政が始まったのか?について、まず説明します。
摂関政治が終わって院政が始まった理由
クリックすると、このあと説明するところから再生されます。
藤原氏は、自分の娘を天皇の后にして、生まれた子供を天皇にすることで、権力を握っていました。
天皇の母方のおじいちゃんになることで、天皇と血のつながりを獲得して、発言力を高めていたんです。
で、摂政や関白っていう役職につくことで、政治のリーダーシップをとっていた。
これが摂関政治でした。
ところが、権力を握っていた藤原頼通は、自分の娘を天皇の后にするところまでは良かったんですが、その娘がなかなか男の子を産んでくれなかった。
だから、「自分と血のつながりがある人が新しい天皇になることで、権力を握る」っていう作戦ができなくなっちゃったんです。
で、結局、1068年に、藤原氏と血のつながりが薄い人が新しい天皇になることになりました。
この天皇が、後三条天皇です。
この結果、藤原氏の発言力はダウン。
後三条天皇は、自らリーダーシップをとって、荘園の管理を強めるなどの政治改革を行いました。
この荘園の管理を強める政策のことを延久の荘園整理令っていうんですけど、荘園については、また今度説明をします。
とにかく、藤原氏じゃなくて、天皇自らリーダーシップをとって政治を行うようになった、っていうところがポイントです。
ところが。
後三条天皇の登場によって、昔みたいにまた天皇がリーダーシップをとって政治を行う体制に戻るかと思いきや、
次の天皇である白河天皇は院政という新しい政治のあり方をスタートさせました。
白河天皇は、8歳の息子に天皇の位を譲って、上皇として天皇をサポートする形で政治を行おうとしたのです。
白河天皇がなんでこんなことをしたのか?というと、自分の直系の子孫(子・孫)に皇位を継承させようと思ったからです。
この院政は、白河上皇・鳥羽上皇・後白河上皇と100年くらい続くことになりました。
ちなみにですが、この院政の時期くらいから、家族のあり方も変わっていました。
摂関政治が行われていた時は、結婚した男女は妻の方の家で生活して、妻の両親と生活するのが一般的でした。
子供を母の方の家で育てることが多かったということ。
だから、サザエさんでいうと新しい天皇であるタラちゃんは、お母さんのサザエさんの家(磯野家)で生活することになって、母の方のおじいちゃんである波平の影響力をすごい受けることになっていました。
この波平が、藤原氏です。
ところが、院政の時期くらいから、「結婚した男女は妻の方の家で生活して、妻の両親と生活する」っていうのが薄れてきていたんですね。
子供に対する母の方の家の影響力(波平の影響力)が弱まって、父の方の家の影響力が強くなってきていた時期だったんです。
このように家族のあり方が変化しつつあったこともあって、院政が行われるようになりました。
院政はどんな政治だったのか?
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では、院政はどんな政治だったのか?についてです。
院政では、上皇が天皇家の家長(家族のトップ)という発言力がむちゃくちゃ大きい立場から、法や慣例にこだわらずに専制的に(思うままに)政治を行いました。
正式に(公的に)権限を持っていたわけじゃなくて、正式じゃない形で、私的に政治に介入して行ったんです。
例えば、自分の考えを天皇や摂政・関白に伝えたり、上級貴族を上皇がいる場所(院)に集めて話し合わせたり、っていう感じ。
さらに、その話し合いの場所に集める人を身分にとらわれずに自由に決めたりもしました。
その結果、権力を握るためには上皇とお近づきになることが必要になったので、摂関家も上皇と結びつくことで自分の地位を維持しようとしました。
あと地方の政治を任されている役人を国司って言って、ある地方を任されている国司の中のトップの人を受領っていうんですけど、受領はおいしい役職でした。
受領は朝廷から「税さえ納めてくれれば、地方をどう支配してもいいよ」って言われていたので、農民から税を結構多めに集めて、余った分を自分の財布に入れる、みたいなことができちゃっていたわけです。
なので、「受領をやりたい!」っていう人が結構いました。
で、そういう人たちは、上皇をヨイショするんです。
例えば、上皇は仏教を信仰するのに熱心で、「寺院を作りたい!」って思っていました。
で、受領に任命してほしい人がその事業を請け負うんです。
寺院を作る代わりに、受領に任命してもらうんですよね。
上皇との関係、コネクションがものをいう時代です。
こんな感じで、上皇は法や慣例にこだわらずに専制的に政治を行いました。
それでいいのかよ?って思うかもしれませんが、この時代はもう「社会を動かすのは法(ルール)じゃなくて実力だぜ」っていう雰囲気だったんですよね。
この「社会を実力で動かそうとする時代」を、まとめて中世って言います。
中世は戦国時代まで続きます。
戦国時代って「社会を実力で動かそうとする時代」ですよね。
(ちなみに、戦国時代が終わった後の時代は、近世と言います。)
中世の前は古代です。
律令国家って、仕組みを作って、法に基づいて社会を動かそうとしていましたよね。
が、その法が全然機能しなくなって、「社会を動かすのは法(ルール)じゃなくて実力だぜ」っていう中世になった。
一般的に、中世のスタートは院政の頃からってことになっています。
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