【日本史】自由民権運動の流れをわかりやすく

自由民権運動と士族反乱の流れについて、5つの段階に分けて説明します!
- 自由民権運動と士族反乱がスタートした時期
- 士族反乱が挫折し自由民権運動が活発になった時期
- 自由民権運動が衰退した時期
- 自由民権運動が再び盛り上がった時期
- 1889年に憲法ができて、1890年に議会ができた!
①自由民権運動と士族反乱がスタートした時期
反政府運動である自由民権運動と士族反乱は1874年頃からスタートしました。
1873 明治六年の政変(政府が分裂)
廃藩置県という大仕事を終えた後(1871年)、政府のメンバーは役割分担をして、
- 海外に行くグループ(岩倉使節団)
- 国内で留守番をするグループ(留守政府)
とに分かれて、それぞれ活動を行っていました。

廃藩置県という大仕事を終えた後(1871年)、政府のメンバーは役割分担をして、「海外に行くグループ(岩倉使節団)」と「国内で留守番をするグループ(留守政府)」とに分かれて、それぞれ活動を行いました。
国内で留守番をしていた政府のメンバーの人たちは、学制や徴兵制、地租改正などの改革を行います。これらの改革は江戸時代の頃の生活をガラッと変えるものだったので、士族(元武士)や農民の中は不満を抱く人が結構な数いました。
その様子を目の当たりにした留守政府のメンバーたちは、人々の不満解消(ガス抜き)の意味も込めて「無理やりでもいいから、朝鮮半島で勢力を伸ばしていくぞ!!」っていう考え(征韓論)を強めていきます。
国内組(留守政府)
- 西郷隆盛
- 板垣退助
- 江藤新平
- 後藤象二郎
- 副島種臣
- 大隈重信
そんな中、海外に行っていた岩倉使節団が1873年秋に帰国します。

岩倉使節団のメンバーは海外を視察して欧米諸国のスゴさをリアルに感じたわけなので、「朝鮮に進出するぞー!」って盛り上がっていたメンバーに対して「朝鮮に進出するよりも、まずは日本国内の改革をするべきだ!」って主張しました。
海外組(岩倉使節団)
- 岩倉具視(右大臣)
- 木戸孝允
- 大久保利通
- 伊藤博文
- 山口尚芳

結局、帰国組がうまいことやって(←くわしくは省略)、天皇に「朝鮮半島に行くのはまだダメよ!」って言わせることに成功し、帰国組の「まずは国内の改革をするべきだ!」っていう考えが通ることになりました。
これにカッチーン!ときた留守政府のメンバー(西郷・板垣・江藤・後藤・副島)は、1873年に明治政府から去りました。この事件のことを明治六年の政変と言います。



そして、政府から去った人たちはさまざまな形で反政府運動を展開していくことになります。(→自由民権運動・士族反乱)
明治六年の政変後、大久保が政府の中心に
明治六年の政変によりたくさんの人が去った明治政府では、大久保利通っていう人が強い権力を握ることになりました。
大久保利通はものすごい権限を持つ官庁である内務省を設置して、自らそのトップ(内務卿)になることで、政府の中心人物としてのポジションを確立します。
※内務省=地方行政・治安などを扱う官庁。1873年設置。国内行政の大半を担い、政府の最高権力を握った。
1874 民撰議院設立の建白書
そんな政府に対して、政府から離れた
- 板垣退助
- 江藤新平
- 後藤象二郎
- 副島種臣
たちは、「人々の選挙にもとづく議院を設立してくれ!」っていう要望を書いた紙を提出しました(1874年)。この文書のことを民撰議院設立の建白書と言います。
民撰議院設立の建白書:今の日本は国の運営が一部の人だけによって行われている!税金を払っている人には政治に参加する権利がある!早く選挙によって選ばれた代表者からなる議会を作って、人々の意見を取り入れるべきだ!」
※よく民選議”員”って書くミスをする人がいますが、設立してほしいのは議院です。ちゃんとわかっていれば防げるミス!

ところが政府は、この「議会を作ってくれ!」っていう要望を「まだ早い(時期尚早)」という理由で却下しました。
「議会なんてありえない!」っていう理由じゃないっていうのがポイントです。政府も「いつかは議会を作らなきゃいけない」って考えていることがわかります。
ちなみに、この民撰議院設立の建白書は『日新真事誌』(にっしんしんじし)っていう新聞に掲載されて、多くの人の目に触れることになりました。そして、これがきっかけとなって自由民権運動が本格化していきます。
んで、『日新真事誌』って高校の日本史のテストでたまに出たりするんですけど、これがなんでなのか?というと、「この時期から、新聞というものが社会にインパクトを与えるようになった」ということを示したいからです。
印刷技術の発達が自由民権運動を後押しした
自由民権運動は、新聞や雑誌、もっと言うと印刷技術の発達に支えられていました。
文章をコピーする方法は、昔は3つの方法がありました。
- がんばって手で書き写す
- 木の板に文章を掘ってインクを塗る(木版印刷)
- 1文字ずつ掘られた文字ブロックを組み合わせて、文章の板を作ってからインクを塗る(活版印刷)
がんばって手で書き写すのはむっちゃ大変だし、木の板に文章を掘るのも大変ですよね。
でも、1文字ずつ掘られた文字ブロックを一度作っておけば、あとはブロックの組み合わせを変えればどんな文章でも作ることができます。なので、活版印刷は効率の良いコピーの仕方だったわけです。
※ちなみに、この文字ブロックのことを活字(かつじ)と言います。活字は英語でmovable typeです。movableってのは「動かせる」っていう意味。

この活字を使った活版印刷技術が、ヨーロッパで早くから発達しました。英語は26文字のアルファベットからなるので、ブロックを作るのが比較的楽だったからです。
一方、日本ではなかなか活版印刷は普及しませんでした。日本語の場合、ひらがな・カタカナ・漢字…とたくさんの文字があるので、ブロックを作るのも管理するのも大変だったからです。
江戸時代の前に、日本に活版印刷の技術は伝わっていたんですけど、結局「面倒だから活版印刷じゃなくて良いよ!」って諦めたっぽいです。なので、江戸時代の日本では効率の悪い木版印刷が主流でした。
ところが、幕末から明治時代初めにかけて、本木昌造っていう人がむっちゃ頑張って日本語の活字を大量に作ることに成功しました。で、1870年頃、日本語の活版印刷技術を確立させました。こうして、日本語の文章を簡単に大量印刷できるようになったわけです。

この印刷技術の発達を受けて、新聞や雑誌が作られるようになって、人々は新聞や雑誌を通して自由民権運動の考え方を学びました。
長々説明してしまいましたが、つまりは印刷技術の発達が自由民権運動を後押ししたっていうことです。
1875 政府は人々の表現活動を規制
だからこそ、政府は「新聞や雑誌で政府のことを攻撃するんじゃねえぞ!」って取り締まります。
これが、1875年6月に出された新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ)です。
- 讒謗律:名誉毀損に対する処罰を定めた
- 新聞紙条例:新聞の発行基準を定めた
1875 大阪会議
一方で、明治政府は自由民権派のメンバーの意見を取り入れたり政府の一員にしたりするという方法で、自由民権運動を抑えようともしました。
その具体例が1875年に行われた大阪会議という話し合いです。

1874年に板垣退助たちが高知県で立志社っていう政治グループを作ったり、1875年に各地の政治グループみんなでまとまるぞ!って感じの全国組織である愛国社ができたりした。
「面倒なことになってきたなあ…」っていうタイミングで、明治政府は自由民権運動派に少し歩み寄る姿勢を見せたわけです。
明治政府の中心にいた大久保利通と政府から離れていた木戸孝允・板垣退助は、大阪に集まって話し合いをします。そして以下のことが決まりました。
- 木戸・板垣が政府に復帰する
- 少しずつ憲法と国会を作る準備を進めますよ(漸次立憲政体樹立の詔)
※結局、半年で板垣が政府から離れて、大久保が主導権を握る体制に戻ってしまいましたが。
士族反乱
あと、「暴力を使って政府をぶっつぶすぞ!」っていう形の反政府運動も起きました。それが士族反乱です。

②士族反乱が挫折し自由民権運動が活発になった時期
第2段階は、士族反乱が挫折して反政府運動が自由民権運動に集約されて、自由民権運動が活発になった段階です。
1877 西南戦争
各地の士族反乱が鎮圧されて、地租改正反対一揆も落ち着いてきた1877年になって、政府から離れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛がいよいよ行動を起こしました。
それが西南戦争です。最大規模の士族反乱でした。

政府は約半年かけてすべて鎮圧し、この西南戦争によって「徴兵令によってできた政府の軍隊ってマジで強いわ…」ってことが明らかになったので、武力を使った反政府運動に終止符が打たれることになりました。
西南戦争後からは、政府に不満を抱く人々は言葉を使って(=自由民権運動の形で)反政府運動を展開していきます。

1878 大久保の死去
1878年に、政府で強い権力を握っていた大久保利通が、政府に対して不満を抱く氏族によって暗殺されてしまいました(紀尾井坂の変)。
これまで大久保が独裁的に政府を引っ張っていたのですが、大久保が暗殺されたことによって、そのような強力なリーダーがいなくなってしまったわけです。
※1877年〜78年に、「維新の三傑」と言われた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が亡くなりました(西郷隆盛は1877年の西南戦争の際に自殺して、木戸孝允は1877年に病死した)。



結局その後は、複数のメンバー(岩倉具視・伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・大隈重信たち)が政府でリーダーシップを取ることになりました(→意見の対立から、3年後に明治十四年の政変っていう大事件が起きます)。
1878 地方自治の制度化(地方三新法)
明治政府は自由民権運動に対処するために、「地方の人々に自分の意見を反映させる場所を正式に与える」という政策も実行しました。
それが、1878年に出されたいわゆる地方三新法です。
- 郡区町村編制法
- 府県会規則
- 地方税規則
くわしい説明は省略しますが、ざっくり言うと「地方議会のようなものを作って地方自治を制度化したよ」ってことです。国会を作って国の政治に人々の意見を反映させる前に、まず地方の政治に人々の意見を反映させる仕組みを作った。
※たぶん、江戸時代から村では自治が行われていたので、地方自治の制度を導入するのは比較的簡単だったんだと思います。
この結果、地域の有力者(豪農や商工業者)の政治参加が加速して、自由民権運動に地域の有力者も加わることになりました。自由民権運動が活発化します。
※豪農==たくさんの土地を持つ地主
1880 国会期成同盟
そして1880年に、自由民権運動派の人々によって国会期成同盟という政治グループが作られました。その名の通り、国会の開設を求めるグループです。
またこの時期から、「僕だったらこんな憲法を作る!」っていう自主的な憲法草案作成の動きが活発になりました(私擬憲法)。
1880 集会条例
こうした自由民権運動派の動きに対して、明治政府は「政治活動を規制する」という形で対処しました。
それが1880年に出された集会条例です(→集会・結社の自由を規制した)。
明治政府があの手この手を使って自由民権運動を抑えようとしていることがわかりますよね。
1881 明治十四年の政変(国会開設の勅諭)
ところがそんな明治政府の中で大きな対立が起きてしまいました。
- いつ国会を作るか?
- どんな憲法にするか?
をテーマに意見が衝突。
- 大隈重信:「国会を早く作ろう!」「国会の多数派政党の人が中心となって日本を引っ張ろう!」(議院内閣制)
- 岩倉具視や伊藤博文:「国会を作るのはまだ早い!」「天皇が中心となって日本を引っ張ろう!」
ちょうどこの対立が起きている中で、開拓使官有物払下げ事件っていう事件が起きました(1881年)。
簡単にいうと、開拓使(=北海道の開発をする役所)が持っていた公的な工場など(=官有物)をむちゃくちゃ安い値段で民間に売ろうとしたことが明らかになって、新聞で大々的に報じられて政府への批判がわき起こり、大炎上したっていう事件です。
一説には、国会と憲法について独特な意見を言って他のメンバーと対立していた大隈重信が、政府を攻撃するためにリークしたのでは?と言われています。
結局、開拓使官有物の払下げを中止するとともに、他の政府のメンバーは「大隈重信め、ふざけんじゃねえ!」って考えて、1881年に大隈重信と大隈派勢力を政府から追放しました。自由民権運動に好意的と見られてきたメンバーが排除されたわけです。
そして、自由民権運動派による政府批判を抑えるために、
- 「1890年に(=10年後に)国会を開きます!」(=国会開設の勅諭)
- 「憲法は国民が話し合って作るんじゃなくて、天皇が定めますよ!」(=欽定憲法)
ってことを約束しました。
この一連の出来事のことを明治十四年の政変と言います。超重要な事件です。

政党の結成
この頃、政党が相次いで結成されました。 ※政党=同じような考えを持つ人が集まった政治グループ
- 1881年:自由党(党首:板垣退助)
- 1882年:立憲改進党(党首:大隈重信)
- 1882年:立憲帝政党
国会開設に向けて動きが活発になったって感じです。
③自由民権運動が衰退した時期
ところが一転、1882年頃から自由民権運動の勢いが衰えていきます。
その理由は主に
- 自由民権運動の目標が見失われたこと
- 大不況に陥ったこと
です。この結果、自由民権運動は
- 活動を落ち着かせる人
- 活動を過激化させる人
の2つに分解されることになりました。
自由民権運動の目標が見失われた
明治十四年の政変によって、政府が
- 「1890年に(=10年後に)国会を開きます!」(=国会開設の勅諭)
- 「憲法は国民が話し合って作るんじゃなくて、天皇が定めますよ!」(=欽定憲法)
ってことを公約した結果、「もう国会を早く作れって言っても意味ないし、憲法は天皇が定めるって決まったしなあ…」ってことになって、自由民権運動がこれまで掲げてきた目標が見失われました。
ってことを公約した結果、「もう国会を早く作れって言っても意味ないし、憲法は天皇が定めるって決まったしなあ…」ってことになって、自由民権運動がこれまで掲げてきた目標が見失われました。
松方財政による不況
また、1881年から大蔵卿の松方正義が行った財政政策(松方財政)によって経済活動が停滞して、特に農村は深刻な不況に陥りました。
自由民権運動の分解
その結果、貧しくなった農民は、
- 自由民権運動に積極的に関与する余裕がなくなって活動を落ち着かせたり、
- 逆に、暴動を起こすという過激な活動をしたりしました。
激化事件
この時期に一部の自由民権運動派や貧しくなった農民が起こした事件のことを、まとめて激化事件と言います。
- 1882年:福島事件
- 1884年:加波山事件
- 1884年:秩父事件
- 1885年:大阪事件
このような過激な動きを自由党や立憲改進党の政党幹部は抑えることができず、1884年に自由党は解党し、立憲改進党は活動停止状態に陥ってしまいました。
④自由民権運動が再び盛り上がった時期
いよいよ第4段階です。
国会開設の時期が近づいた1886年頃から、自由民権運動派が「もう一度みんなで力を合わせよう!」って感じで動き始めて自由民権運動が最後の盛り上がりを見せました。
大同団結運動
それが大同団結運動と呼ばれる運動です。自由党の中心人物だった後藤象二郎と星亨たちが、「自由党も立憲改進党も関係なく、自由民権運動派みんなで一緒に国会開設の準備をしよう!」って呼びかけました。
ちょうどその頃(1887年)、政府の井上馨外相が条約改正交渉に失敗していたので、それをきっかけに「政府はちゃんとやれー!」っていう運動も展開されることになりました(三大事件建白運動)。

1887 保安条例
こうした自由民権運動派の動きに対して、明治政府は「政治活動を規制する」という形で対処します。
それが1887年に出された保安条例です(→危険な自由民権運動派の人物を皇居から約12kmの範囲に近づかせないようにした)。
⑤1889年に憲法ができて、1890年に国会ができた!
そしてとうとう、政府の公約通りに憲法ができて、国会が開設されました。
- 1889年:大日本帝国憲法
- 1889年:衆議院議員選挙法
- 1890年:帝国議会















