【日本史】士族反乱と西南戦争をわかりやすく:自由民権運動との関係

士族反乱を理解するうえでのポイントについて話をします!
自由民権運動も士族反乱も「反政府」運動
自由民権運動も士族反乱も、どちらも「新政府への反抗」(反政府運動)です。表現の仕方に「言葉」か「暴力」の違いはありますが、どちらも政府への不満を表した行動なんです。ここが超大事なポイント。
※だから教科書では、自由民権運動と士族反乱がまとめて一緒の場所に書かれています。

じゃあ、なんで新政府に対して不満を抱いたのでしょうか?
それは、江戸幕府に代わって日本を引っ張っていく立場になった明治政府のメンバーが、自分たちだけで政治を行っていたからです。人々の意見をたいして聞かず、少人数の有力者だけで日本という国のあり方・システム・制度を考えて決めていた。
このことに対して不満を抱いたわけです。

例えるんだったら、校則がほとんど決まっていなくて、いつ荒れるかわからない学年で、新しく学年職員になった人たちが独裁的に学年の運営をしましたー、っていうイメージ。
この時の生徒の行動は
- 教員にすべて従う
- 「自分たちの学年なんだから、私たちの意見も聞いてよ!」って訴える
- 教員をぶっとばす
の3つあるわけですが、自由民権運動と士族反乱を当てはめるとしたら、
- 「自分たちの学年なんだから、私たちの意見も聞いてよ!」って訴える→自由民権運動
- 教員をぶっとばす→士族反乱
って感じです。
こんな感じで、「自分たちだけで学年の未来を決めようとする教員と、教員に不満を抱く生徒の間でバトルが起きたよ。じゃあ、どんな駆け引きが行われるだろう?」ってイメージすると、自由民権運動と士族反乱の部分の歴史はわかりやすくなると思います!
自由民権運動
1874年頃から1880年代にかけて、「一部の人だけで政治するな!国会を開設して国民を政治に参加させてくれ!」って政府に対して要求した運動。

士族反乱
1874年頃から1877年頃にかけて、士族(元武士)が「俺たちの権利を奪うんじゃねえ!新政府ふざけんな!」って抵抗した運動。
- 1874年:佐賀の乱(@佐賀)
- 1876年:敬神党(神風連)の乱(@熊本)
- 1876年:秋月の乱(@福岡)
- 1876年:萩の乱(@山口)
- 1877年:西南戦争(@鹿児島)
明治政府が誕生して様々な改革が進む中で、もともと武士だった人たち(士族)が今まで持っていた権利が失われていったので、そのことに対する不満が爆発したわけです。
武士の特権を奪った政策
新政府の対応
じゃあ、反発してきた人たちに対してどういう対処をするのがいいでしょうか?
さっきの教員と生徒の対立の例で言うと、こんな感じで対処する人が多いんじゃないでしょうか?
「自分たちの学年なんだから、私たちの意見も聞いてよ!」って訴えられたら…
- 「あんたらはまだ何もわかっていないお子ちゃまなの!あんたが意見を言うなんて10年早いのよ!」って突っぱねる
- 生徒の行動を制限する
- 同時に、生徒の意見を部分的に取り入れてヨシヨシしてあげる
教員をぶっとばそうとしてきたら…
- 冷静にぶっとばし返す
明治新政府の自由民権運動・士族反乱への対処法もこれと同じです。
自由民権運動に対しては理解を示す
自由民権運動に対しては、政府は「ダメだよ」って言いつつも歩み寄る姿勢を見せたりもしました。
- 国会開設はまだ早い!って言うし
- 人々の表現活動や政治活動を規制する(新聞紙条例、讒謗律、集会条例、保安条例)
けれど、一方で
- 自由民権派のメンバーの意見を取り入れたり、政府の一員にしたりする
- 地方自治を制度化して、住民の意見を取り入れる場所を作る(地方三新法)
士族反乱に対しては徹底的に叩く
士族反乱に対しては、政府は軍隊を使って徹底的に叩く方針をとりました。
暴力を使うヤツらや、明治政府をつぶそうとする(=明治政府が目指している方向とは真逆のことをしようとする)ヤツらには容赦しなかったってことです。
「暴力で反抗してくるのは許さん!政府軍を使って徹底的にぶっつぶす!」
1877 西南戦争
各地の士族反乱が鎮圧されて、地租改正反対一揆も落ち着いてきた1877年になって、政府から離れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛がいよいよ行動を起こしました。
それが西南戦争です。最大規模の士族反乱でした。






政府は約半年かけてすべて鎮圧し、この西南戦争によって「徴兵令によってできた政府の軍隊ってマジで強いわ…」ってことが明らかになったので、武力を使った反政府運動に終止符が打たれることになりました。
この後、政府に不満を抱く人々は言葉を使って(=自由民権運動の形で)反政府運動を展開していきます。
【重要】明治政府と自由民権運動派は同じ方向を向いている
なんで自由民権運動に対しては優しく対処することもあったのか?というと、明治政府と自由民権運動派は同じ方向を向いているからです。
大きな目標は共通しているけど、そのやり方で対立しているだけ。
ポイントは、どっちも「日本をより良くしたい!」って思っていて、
- 国会(議会)を作ること
- 国の政治のルール(憲法)を制定すること
のどちらも必要なことだと考えていた、ということです!
※ただ、自由民権運動を先頭に立って展開していくことになったのは、明治六年の政変で政府から去った人たちでした。彼らの不満の根っこにあったのは「俺たちの考えを受け入れてもらえなかった」という感覚なので、「国会(議会)を早く作ってくれ!」って主張したわけです(民撰議院設立の建白書)。

明治政府の考え
- 日本をより良くしたい!
- そのためには、国の政治のルール(憲法)を作るべきだ!
- あと、議会制度を導入して人々の意見を取り入れていきたい。
- でも、まだ国会(議会)を作るのは早い。だってこの国はまだまだ未熟な段階で、「わかっていない人」の意見を取り入れるのは危険だから。
- なので、しばらくは「わかっている人」が国を引っ張っていくべきだ!議会を作るのは待ってくれ!
- 国の基礎が確立するまで、政府批判は許さねえ!
自由民権運動派の考え
- 日本をより良くしたい!
- そのためには、国の政治のルール(憲法)を作るべきだ!
- あと、議会制度を導入して人々の意見を取り入れるべきだ!
- とにかく早く国会(議会)を作ってくれ!
近代国家の仕組み
国会(議会)とは?
国会は、
- 反政府運動ができるオフィシャルな・公的な場所
- 人々の意見を取り入れるためのシステム
です。
国の運営方針を考えて実行する組織である政府(内閣)に対して、国会はあれこれ意見をぶつけることができます。「政府の考えは間違っている!」って反対意見を言うこともできます。
そしてその国会のメンバーは人々の選挙によって選ばれます(←当初は、全メンバーが選挙で選ばれるわけじゃなかったし、国民全員が投票できるわけじゃなかったけど)。
※ちなみに、現代の日本では議院内閣制というシステムが取り入れられていて、制度上、内閣と国会がある程度くっついています。

明治政府も自由民権運動派も、「たくさんの人の考えを聞いて政治を行うべきだ!そういう国こそが強い国なんだ!」って思っていたわけですが、国会を作るタイミングについては意見が合いませんでした。
憲法とは?
憲法っていうのは、「国のあり方の根本を定めたルール」のことで、
- 国がやるべきことと、国がやってはいけないことについて定めたルール
- 国の政治の仕組みについて定めたルール
の2つの要素で構成されます(←そうじゃない憲法も世界にはあるかも)。
あと憲法についてです。

明治政府も自由民権運動派も「日本っていう国はこういうやり方で運営していきます!っていうルールを作るべきだ!」って考えていました。
ただ、天皇の権力の強さをどれくらいにするか?に関して、いろんな考えがあってなかなか意見がまとまりませんでした。
1889年に憲法ができて、1890年に議会ができた
自由民権運動と士族反乱の具体的な流れ・内容を全部すっとばして最終的な話をすると、
反政府運動が本格化した1874年頃から約15年の歳月を経て、自由民権運動派が求めていたものが(その内容はどうあれ)実現しました。
反政府運動が本格化した1874年頃から約15年の歳月を経て、自由民権運動派が求めていたものが(その内容はどうあれ)実現したのです。


じゃあ、その約15年の間、どんなバトルが繰り広げられていたのでしょうか?













