「殺して」と頼んできた相手を殺すことを嘱託殺人(しょくたく さつじん)と言います。
今回は嘱託殺人について考えてみます。
嘱託殺人の構造
嘱託殺人が起きるためにはいくつかの条件が必要で、嘱託殺人にはいくつかのパターンがある。
【死にたい人】
死にたい理由がある
- これ以上生きてつらい思いをしたくない
- 未来に希望が持てない(←頑張ったからこそ自分の限界を認識し、自分じゃどうにもできないという絶望感を抱いている)
※SNSなどを通して「キラキラした他人」を見せつけられてしまうことも、つらさを増幅させると思う
自殺を選ばない理由がある
- 自分一人で死ぬのは怖い(誰かに手伝ってほしい)
- ちゃんと死にたい(自殺を失敗したくない)
- 死んだ後に迷惑をかけたくない(ちゃんと”後処理”してほしい)
「死にたい理由がある」「自殺を選ばない理由がある」の2つが揃うことが条件。
そのうえで「自殺に協力してくれる人」がいる必要があります。
【自殺に協力する人】
自殺に協力する人のパターンは4つに分けられるかなーと思います。
①人を殺してみたい
※快楽殺人者
※嘱託殺人は通常の殺人よりもかなり刑罰が軽い
②人を殺すことに抵抗がない
③お金がほしい
- 自殺に協力することでお金をもらえる契約をしている
※でもお金を得るために嘱託殺人に手を染めるのはコスパが悪すぎると思うので、このパターンは少なそう
④人生に絶望している
- 嘱託殺人に手を染めることでしか自分を保てない(他人から必要とされ、他人の願いに応える手段がそれしかないと思っている)
【両者のマッチング】
嘱託殺人が実現するためには、死にたい人と自殺に協力する人が実際に出会う必要があります。
SNSの発達により、両者のマッチングはかなり容易になったはず・・・。
考えたこと
「これ以上生きてつらい思いをしたくない」「未来に希望が持てない」って思って死ぬ決意をした人
✖️
そういう人に協力することで「自分だって誰かの役に立つことができるんだ…!」って思いたい人
の場合=共に自分の人生に絶望している2人が出会って嘱託殺人が成立した場合、
それが本人たちにとって幸せなことだったのか不幸なことだったのかを考えると、ちょっと悩んでしまう自分がいます。
死ぬ決意をした人は「相手の役に立つことができた」って思って自分の存在意義を感じることができたかもしれないし、協力者も「相手の役に立つことができた」って思って自分の存在意義を感じることができたかもしれません。
「殺してもらう」「殺してあげる」以外の道を選べないくらい追い詰められていたのかも・・・そうするしか自分の価値を感じる方法が見つからなかったのかも・・・と想像すると、なんとも言えない気持ちになります。
★★★
嘱託殺人が起きると加害者の異常性ばかり報道されがちです。また、すぐに国や政府のせいだって言う人がいます。
が、僕はそれに意味があるとは思いません。
もちろん加害者に異常性を感じることもありますし、「こういう社会だったらこんなことは起きなかったはずなのに」と思うことはあります。
でも、誰かのせいにする態度は自分の首を絞めること、つらい思いをしている人の首を絞めることにつながってしまうと思います。誰のせいにもできず「自分のせいだ」としか思えない状況が来た時、とてもつらい思いをすることになるはずです。
かといって、死にたいと思っている人に「生きていればいいことがある」って言ったとしても、あまり意味がない気もします。そう思えないから死にたいわけなので。
正直言ってどうしたらいいかわかりません。嘱託殺人のような不幸なことを減らすために何ができるのかわかりません。そもそも「死にたい」っていう思いを否定することが正しいことなのかもわかりません。死の時期を自分で決めちゃいけないの?っていう疑問に迷いなく答えることができません。
僕たちにできるのは、それを考え続けることだけなのかもしれません。
ただ僕が思うのは、うまくいかなくてすごくつらい気持ちになったら逃げていいし休んでいいってこと。人に迷惑をかけちゃいけないってよく言われますが、どんどん迷惑をかけていいとさえ思います。もっと人に助けられていい。
もっともっと他人にも自分にも寛容な社会になればいいなと思います。
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