【日本史】江戸時代末の将軍継嗣問題をわかりやすく

安政の改革により、今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加するようになりました。
こうなると、今まで幕府の運営にあたっていた譜代大名たちはどんな気持ちになるでしょうか?
・・・どうしても「なんか嫌だな」って反発する気持ちが出てくる。今回はそんな反発が将軍の後継ぎ問題につながったという話について。
安政の改革後、幕府内で対立が激化
安政の改革が行われるまで、幕府を運営していたのは老中などの幕閣に就任した譜代大名・旗本でした(幕閣独裁)。
でも安政の改革により、今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加することになった。

今まで幕府の運営にあたっていた譜代大名たちからは、「なんか嫌だな」って反発する気持ちが出てくる。自分たちの意見が通りにくくなるし。「俺たちのグループ」に自分たち以外の人も参加するようになると、「誰だよお前」って感じになる。
例えば、体育祭についての話し合いを3学年主任と3年生の各クラスの学級委員でやっていたのに、急に1・2年生の各クラスの学級委員も呼んで一緒に話し合うことになったら・・・「なんか嫌」って思う3年生は少なくない。
仕組みが変わって自分たちの意見が通りにくくなると、反発したくなるのが人間です。
「面白くねえなあ…」って思っていた譜代大名たちの中心にいたのが、井伊直弼という人です。

将軍継嗣問題
譜代大名など幕閣たちと親藩・外様大名たちの両者の派閥争いが、13代将軍家定の後継者争いとして表面化することになりました。
13代将軍の家定は病弱で幕府を引っ張っていける人物ではなく、しかも子供がいなかったので、「次の将軍を誰にするか?」を考えなきゃいけなくなったことがきっかけです。
南紀派
井伊直弼を中心とする譜代大名たちは「能力の高さも大事だけど、将軍は血縁を重視して選ぶべきだ!」ってことで、「徳川慶福が次の将軍としてふさわしい!」って考えました。
この派閥のことを南紀派と言います。

一橋派
一方、新たに幕府の運営に参加するようになった徳川斉昭や松平慶永や島津斉彬は「将軍はその人の能力を重視して選ぼう!だって能力の高さが重要だから!」ってことで、「徳川慶喜が次の将軍としてふさわしい!」って考えました。
この派閥のことを一橋派と言います。
※徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬は能力が優れているってことで幕府から呼ばれた人たちだったので、「能力の高さが重要!」って考えそうですよね。

このような対立が起きていた頃(1856年)、アメリカの外交官ハリスが、日米和親条約にもとづいて初代駐日アメリカ総領事として下田に着任しました。
そして幕府は、アメリカから日米修好通商条約の調印を迫られることになります。














