日本

【日本史】日米和親条約をわかりやすく:「鎖国」と「開国」の違いとは

モチオカ(望岡 慶)

1853年のペリー来航をきっかけに、日本はアメリカと日米和親条約を結んで開国しました。

でも、

  • なぜ開国することになったのでしょうか?
  • そもそも「開国」ってどういうこと?

このあたりを説明します!

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アメリカが日本に開国を求めた理由

アメリカは日本を必要な物資を確保する拠点にしたかったようです。船で航海をする際に、水や食べ物、石炭=燃料を補給できる場所がほしかった。

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日本が開国するまでの経緯

ペリー来航(1回目:1853年)

アメリカ大統領のフィルモアっていう人が、東インド艦隊司令長官だったペリーを使節として日本に派遣しました。ペリーが日本の浦賀(@神奈川)に軍艦4隻を率いて来航したのが1853年6月です。

ペリーはかなりグイグイと「開国しなさーい」と要求したようです。

んで、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は、ペリーのあまりにもグイグイくる強硬な態度におされて、「仕方ないから国書は受け取るか…」ってことでフィルモアの国書を受け取ることを決意しました。

ただ、当時は12代将軍の徳川家慶は病気で「幕府としてはすぐに決断はできません!」って感じだった。

なので、「回答は1年待ってくれ」という約束をしてひとまずペリーに帰ってもらうことにしました。「ふう…とりあえずしのいだー」って感じです。

徳川家慶が亡くなる

でも、1年間しか時間はありません。幕府として何らかの結論を出さなきゃいけません。

ところが、ペリーにお帰りいただいてから10日後、なんと12代将軍の徳川家慶が亡くなってしまいます。

そしてなんとなんと、次の将軍である徳川家定も病弱で幕府を引っ張っていける人物ではなかったようです。

このあたり、トップを能力じゃなくて世襲で決めることの弊害ですよねー

幕府は急いで改革(安政の改革)

そこで江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は「もっともっとみんなの意見を聞こう!」って考えて、今まで幕府の政治に参加していなかった人にも意見を求めました

安政の改革

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ペリー来航(2回目:1854年)

ところが、なんと半年後の1854年1月にペリーが再び来航しました。今度は軍艦を7隻も率いて品川の近くまで(東京湾の奥深くまで)入ってきたらしいです。

結局、ペリーは品川から横浜まで引き返してくれて、横浜で交渉が始まることになりました。

日米和親条約の内容

1854年3月、幕府は軍事衝突を避けるために、老中阿部正弘のもとで日米和親条約(神奈川条約)を結びます。これをもって日本は「開国」することになりました

外交史料館にて(2021.7撮影)

ところで、そもそも「開国」ってどういうことを意味するのでしょうか。

江戸時代の「鎖国」がどのようなシステムだったのか?がわからないと「開国」の意味もつかめないので、「鎖国」についてざっくり説明します。

「鎖国」は「キリスト教の禁教と貿易の統制を目的に、日本人の海外渡航と帰国を禁止して、外交・貿易を制限した政策」のことです。

「鎖国」といっても、国を完全に閉ざしたわけではありません。国を完全に閉ざしたら貿易の利益をゲットできなくなるので、そんなことはしないんです。

江戸幕府は、外国とつながる4つの窓口を持っていました

長崎幕府が直接管理。オランダ船・中国船が来航。
薩摩藩薩摩藩の島津氏が琉球王国を支配。
対馬藩対馬藩の宗氏が釜山の倭館で朝鮮と貿易。
松前藩松前藩の松前氏が蝦夷地のアイヌと交易。

このように、外国との関わり(外交・貿易)を幕府が管理したシステムのことを「鎖国」と言います。

鎖国(絵踏・寺請制度)について

四つの口とは?

この「鎖国」が、日米和親条約が結ばれたことによって終わります。

下田・箱館の開港

まず、日本は「鎖国」の時の4つの窓口以外の窓口を開くことになりました。それが下田と箱館です。

そして、

  • 日本はアメリカ船に対して水や食べ物、石炭などを提供する
  • アメリカの領事を日本に置く

ことが約束されました。

※領事=外国に駐在して自国民の保護などにあたる外交官の一種

※この時点ではアメリカ人が日本で商売をすること(自由貿易)は認められていません!

【日本史】アメリカが日本に開国を求めた理由:なぜ箱館だったのか?
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日本にやってきた外国船に対して日本が水や食べ物、石炭などを提供する、という内容自体は、実は以前の政策(1842 天保の薪水給与令)とほぼ同じです。

ただ、「鎖国」の時とは以下の点で違いました。

  • アメリカ船の来航を認めた
  • 水や食べ物、石炭などを提供する場所を決めた

アメリカに対してだけ最恵国待遇を認める

また、日米和親条約では「アメリカに一方的な最恵国待遇(さいけいこく たいぐう)を与えること」も約束されました。

これは、日本が第三国に対してより有利な待遇を与えた場合、アメリカに対しても同じ待遇を与えることを約束するものです。これを約束することで、アメリカは第三国よりも不利にならずに済むわけです。

ただ、日本だけが強制された(アメリカが第三国により有利な待遇を与えても、日本に対して同じ待遇を与える必要はない)ので、日本にとって不平等な内容でした。

開国とは

以上のように、日本は「鎖国」の時に開いていた4つの窓口以外の窓口(港)を開き、欧米諸国と国交関係を新しく結び、他国の外交官が日本に常駐するようになりました。

このことをもって「日本は開国した」と言います。

ちなみに、1854年にロシアと日露和親条約を結び、下田・箱館に加えて長崎も開港することになりました。

1854年 日露和親条約

(1)開港場の設定

  • 下田・箱館に加えて長崎も開港する

(2)国境を定める

  • 【千島列島】択捉島と得撫(ウルップ)島の間に国境を定める
  • 【樺太】国境を定めず(日露両国民雑居)

まとめ

アメリカは、日本を必要な物資を確保する拠点にしようとした

ペリーは軍艦を率いて日本に来航し、開国を要求した

幕府は軍事衝突を避けるために、老中阿部正弘のもとで日米和親条約(神奈川条約)を結んだ

日米和親条約によって、日本は「鎖国」の時に開いていた4つの窓口以外の窓口(港)を開くことになった

動画でも解説

 

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