オーストラリアの歴史をざっくりまとめました!
※「詳しく・細かくじゃなくていい!ざっくりでいい!」っていう人向けです
イギリス人の入植まで
アボリジニー(Aboriginal People)と総称される先住民が暮らしていた。
彼らは文字文化を持たなかったため、イギリス人が入植するまでの人間の営み(歴史)はあまりよくわかっていない。
イギリス人の入植
1770 オーストラリアを「発見」
1770 キャプテン・クックがオーストラリア東海岸を発見
→イギリスが領有を宣言
1788 入植開始
背景
- 1783 アメリカが独立した(最良の植民地を失った)
- イギリス国内の犯罪者の急増で国内刑務所が飽和状態
- カナダは寒すぎるし、アフリカは伝染病が蔓延している
1788 ニューサウスウェールズに入植開始(→当時はニューサウスウェールズが「オーストラリア」とほぼ同義だった)
- 流刑囚が道路や公共の建物の建設に従事
※1790年台にスペインからメリノ種羊を導入→羊毛が重要な輸出品に
オーストラリア内部で地方自治が進展
その後、ニューサウスウェールズから分離
- タスマニア
- ビクトリア
- クイーンズランド
- 北部地域(現在の北部準州)
- 首都特別地域(ACT)
また、ニューサウスウェールズとは別に独自で形成された植民地があった
- 南オーストラリア
- 西オーストラリア
ゴールドラッシュ
1850年前後にオーストラリアとアメリカで金鉱が発見される(ゴールド・ラッシュ)
↓
- 奴隷制の廃止
- 犯罪者を海外の流刑地に送り込む制度の廃止
による労働力不足から、中国人労働力が流入
※アロー戦争後に結ばれた北京条約で、外国のエージェントが中国人労働者を雇用する権利を認めた条項があった
※1868年、囚人の流刑が終了
各植民地による独自運営
それぞれの植民地が独立した国のように行動した
↓
しかし、次第に様々な問題に直面
- 植民地間の交流が盛んになるにつれ、税関の煩雑さが厄介に
- イギリスが1870年以降軍事力を削減したため、防衛上、国としてまとまる必要が生じた
連邦国家になった
1901 6つの植民地が統合されて1つの連邦国家になった
=事実上の独立
※1913年に首都がキャンベラに設定された
白豪主義
低賃金で金鉱開発に従事し独自のコミュニティを形成した中国人に対して、白人が脅威・嫌悪感を抱いた
1901 移住制限法:植民地がそれぞれ独自に制定した有色人種を排斥する法を一本化したもの
アジア人などの有色人種は語学の書き取りテストが課され、ほぼ全員が不合格になる、というメカニズム
1904 労働党政権の誕生
世界で初めて労働党政権が誕生
→最低賃金制、労使間の調停・仲裁制度
第一次世界大戦への参戦
第二次世界大戦で史上初めて攻撃を受ける
日本軍がダーウィンを空爆、シドニー湾に潜水艦で侵入
大戦後、アジア諸国が独立
戦後の方針転換
多文化政策の推進
1947年に大規模移民計画がスタート
- 東欧・南欧からの大陸系ヨーロッパ人移民が大量に流入した
- 兵員確保、労働力確保、人口減少対策
- 白人移民が対象
戦争で難民・避難者となった非ヨーロッパ人の滞在を許可
※多文化政策は戦争の影響(自分が経験した戦争と、他国の戦争)
アメリカ合衆国への接近
イギリスによるアジア・南太平洋地域での軍備縮小(いつ?)を受けて、オーストラリアは安全保障政策を転換
- アメリカとの同盟関係を強化する
- アジア諸国と良好な関係を構築する
インドシナ難民の受け入れ
1973年にイギリスがECに加盟し、1975年にサイゴンが陥落しインドシナ難民(特にベトナム難民)が大量に押し寄せたことにより、アジアとの関係強化が必然となった。
- 南ベトナム政府の軍人や官僚が国外脱出
- ウィットラム政権がベトナム難民の受け入れを表明
多文化主義の表明
1973年、白豪主義が廃止された。
- 英語を共通語とした多文化政策
- 移民や難民にも英語教育を推進
現代
中国との関係
アイデンティティの模索
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