【日本史】条約改正の流れをわかりやすく:なぜ陸奥宗光は成功した?

条約改正について、
「1894年に領事裁判権(治外法権)が撤廃されて、1911年に関税自主権を回復した!当時の外相は陸奥宗光と小村寿太郎!」
っていうのを丸暗記してるだけ、っていう人も多いんじゃないでしょうか。
でも、よくよく考えてみると1858年に不平等条約を結んでから改正するまでにかなり時間がかかっています。
なんででしょうか?
なぜ不平等条約を結んだのか?はこちら


不平等なルールのもとで、日本は欧米人と貿易をすることになりました。
でもこれじゃ納得いかない。というわけで、不平等な条約を改正するぞ!という動きが起きます。
「不平等」なところ
- 領事裁判権を認めた
- 関税自主権がない

不平等条約を改正するまで
ただ、領事裁判権についてはある程度しかたない。
日本にしっかりとした法律どころか憲法もないわけなので、そんな国に対して欧米人が「領事裁判権は撤廃しますYO」なんて言えません。
この事情を理解しておくことが、条約改正を理解するうえでのポイントです!
岩倉使節団
まず、岩倉使節団(岩倉具視を大使とする外交使節団)が条約改正の交渉をします。

※大使=海外に派遣していろんな交渉をしたり情報収集をしたりする外交使節団のトップの人
主なメンバーは、
- 岩倉具視(右大臣)
- 木戸孝允
- 大久保利通
- 伊藤博文
- 山口尚芳
で、他にも留学生や記録係などが一緒についていって、合計100人くらいの使節団になりました。
結局、条約改正の予備交渉はうまくいかなかったようです。
ただ、岩倉使節団のメンバーは、欧米諸国がどんな国なのか?を実際に目にして、「欧米諸国スゴすぎる!!!こりゃ日本国内の制度とかを整える方を優先しないとマズイわ!!!!(=内治優先)」って気づくことになりました。
議会や様々な法制度を整備する必要性を痛感した、ということです。

寺島外交
寺島宗則外務卿が条約改正の交渉をします。
当時、税収を増やしたかったという事情があったので、関税自主権の回復を目指した条約改正交渉を行いました。
が、失敗しました。

井上外交
井上馨外相が条約改正の交渉をします。
鹿鳴館っていう洋風の建物に外国のお偉いさんを招待して舞踏会をしたり、と「欧化政策」と呼ばれる方法をとりました。
が、これが大批判されます。(外国にすり寄ってんじゃねえよ!っていう)
また、「外国人判事(外国人の裁判官)を任用するので領事裁判権を撤廃してください」っていう交渉だったので大批判されました。(日本は法律が整備されていないので、外国からしたら当然の要求ではある)

大隈外交
大隈重信外相が条約改正の交渉をします。
国民に秘密で交渉をしていたのですが、「外国人判事を大審院で任用するので領事裁判権を撤廃してください」っていう交渉だったっていうのがバラされて、大批判されました。
(※大審院は今でいう最高裁判所)
で、大隈はテロにあって片足を失い、条約改正は失敗です。

青木外交
青木周蔵外相が条約改正の交渉をします。
このあたりから、流れが変わってきました。理由は2つ。
- 法が整備されてきた
- ロシアがシベリア鉄道を着工
ロシアがシベリア鉄道を着工してヨーロッパから東アジアへと進出する気配を出したので、イギリスが「ロシアの東アジア進出に対する防壁をして日本を使おう」って考えたのが大きかった。
イギリスが条約改正交渉に好意的になったのですが、大津事件っていうロシア皇太子を襲撃してしまう事件が日本で起きてしまい、青木外相は責任をとって辞職。

陸奥外交
そして、陸奥宗光外相の時に条約改正に成功。領事裁判権を撤廃することができたました。
この時期までに日本で法律が整備されていた、ってのが最大のポイント。(外国からすると、外国人判事の任用を求める必要もなくなったし、領事裁判権を主張する必要もなくなったということ)
※同時に、居留地ではなく内地雑居に変更。


小村外交
小村寿太郎外相の時に関税自主権の回復にも成功しました。
どストレートに「不平等」だったところにようやくメスを入れることができたということです。


動画でも解説












