日本史

大日本帝国憲法(明治憲法)について東大卒元社会科教員がわかりやすく解説【日本の歴史51】

 

大日本帝国憲法(明治憲法)について、

  • 国の政治がどのように行われたのか?
  • 内閣総理大臣はどのように選ばれたのか?
  • 軍隊はどのようにコントロールされたのか?
  • この憲法にはどんな問題点があったのか?

に分けて話をします!

 

この記事の信頼性

僕(もちお)は、元社会科教員。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

 

望岡 慶
望岡 慶
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そもそも政治とは?

 

「政治」って、よく聞くけど実はよく意味がわかっていない言葉の代表って感じですよね。

で、そもそも「政治」って何なのか?の理解が曖昧なまま大日本帝国憲法の勉強をすると、「大日本帝国憲法って結局なにを目指して作られたものなの?」っていう超大事なことが見えないままになりがちです。

 

というわけで、まず最初に「政治」とは何なのか?についてざっくり説明をします!

 

 

政治ってのは、「何かについていろんな考えを持つ人がいた時に、『結局どうする?』ってのを導こうとする行為」のことです。

 

例えば、クラスで「次の学活の時間はみんなで遊んでいいよ」ってなった時に、

  • みんなでドッヂボールをしたい
  • みんなでフルーツバスケットをしたい
  • 友達と喋りたい
  • 僕は寝たい
  • みんなで遊ばなくてもいいんじゃない?別々でもいいじゃん!

って感じで、一人一人いろんな考えを持ちますよね。こうやって対立が生じたときに、「結局どうする?」ってのを決める行為そのものを政治と言います。

 

だから、「政治って偉い人がやるやつでしょ?」って思われがちなんですけど、実は全然そんなことありません。僕たち一般人も普通に毎日のように政治を行なっています。

 

 

んで、その規模が大きくなって国民全員が関わるようになると、それは国政と呼ばれるわけですが、国民全員が関わるくらいの規模になると「結局どうする?」ってのを決める時のルール(国の政治に関しては、こういうシステムでやっていきますよっていうルール)が必要になりますよね

 

そのルールを定めたのが憲法です。そして、江戸幕府が滅亡してから国の政治のルールがあいまいなままだったので、1889年に大日本帝国憲法が制定されました(明治憲法とも言います)

 

 

 

じゃあここからは、明治憲法の下での国の政治のルールについて説明します!

 

 

明治憲法体制(大日本帝国憲法の下での政治制度)

国の政治がどのように行われたのか?

天皇

明治憲法では「天皇が日本を統治する」と定められました。

「天皇は、今まで血筋が途切れることなく代々(=万世一系)、日本のトップとしてずっと君臨していたスゴイ存在だ!だから日本を統治するのは天皇なのだ!」っていう考え方です。

 

ということで、天皇は議会が関与できない絶大な権限を持つとされました。その権限のことをまとめて天皇大権と言います。

天皇大権(議会の協力なしに行使できる権限)

 

立法に関する大権

「緊急時だけど議会が閉会している時に、天皇の命令でルールを作れるよ」ってことになっていました(緊急勅令)

官僚に関する大権

「天皇は官僚を任命したり免職にしたりできるよ」ってことになっていました(文武官の任免)

陸海軍に関する大権

「天皇は陸軍や海軍に関して、兵力量を決めたり(←編制大権)、作戦の立案や指揮命令をしたり(←統帥権)できるよ」ってことになっていました。

また、「非常事態の時に軍隊に治安維持を任せることができるよ」ってことになっていました(戒厳令)

外交に関する大権

「天皇は宣戦布告をしたり、戦争をやめたり(←講和)、条約を結んだりできるよ」ってことになっていました。

 

 

このように、天皇には議会が関与できない絶大な権力が与えられてはいたんですけど、とは言っても、天皇がすべてにおいて何の制約もなく権限を行使できたわけではありませんでした。

 

というのも、天皇は他の国家機関(内閣や帝国議会、枢密院、参謀本部、海軍軍令部)のサポートを受けながら日本を統治する!っていうことになっていたからです。

 

 

内閣

内閣=内閣総理大臣(首相)+国務大臣たち

です。

日本では天皇がトップなんですけど、その天皇を各国務大臣がサポートする(輔弼する)というシステムになっていたので、実質的には国務大臣たち(内閣)が日本でリーダーシップをとることになっていました

 

例えば、天皇に対して、他の国との関係(外交)に関しては外務大臣がサポートをして、財政に関しては大蔵大臣がサポートをして、、、って感じです(このことを各国務大臣の単独輔弼制と言います)

 

※輔弼(ほひつ)=advise

 

大臣ってのは、国がやらなきゃいけない内容をいくつかの分野に分けた時の、それぞれの分野のトップのことです。

じゃあ、日本の中の一体誰が大臣を務めるのでしょうか?

 

 

誰が大臣を務める?

現代の日本では、日本国憲法に

  • 内閣総理大臣は国会議員である
  • 国務大臣の過半数は国会議員である

と書かれていて、大臣を務める人の条件がある程度決まっています。この条件のもとで、内閣総理大臣が中心になって「誰に大臣をやってもらおう?」って考えて、組閣します。

 

一方、大日本帝国憲法には「大臣を務める人の条件」については何も書かれていませんでした。つまり誰でもいいわけです。っていうか大日本帝国憲法には「内閣総理大臣」という言葉すらには出てきません。

それくらい内閣については曖昧で、「次の内閣総理大臣になりなさい!」と命じられた人が中心になって、国務大臣たちを誰にするかを考えて組閣するだけでした。

 

じゃあ国務大臣たちを選ぶ内閣総理大臣(首相)を、誰がどうやって決めるのでしょうか?

 

 

内閣総理大臣はどのように選ばれる?

内閣総理大臣(首相)は、のちのち元老と呼ばれることになる「明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々」によって選ばれていました。

日本の中心にいた人たち(少人数の人たち)が「次は誰がいいかな?」って考えて、「次はあんたがやりなよ」「えーまじすか、俺っすか」って感じで決まるっていう形です(最後に任命するのは天皇です)

 

元老

明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々。首相の推薦や重要な政策に関わった。黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌に、桂太郎と西園寺公望が加わった。

 

現代の日本では、衆議院で一番多く議席を獲得した政党(最も票を獲得した政党)の党首が首相になる流れになっているので、内閣総理大臣は民衆の考えが反映された存在ですが、大日本帝国憲法のもとでは、民衆の考えとは関係なく内閣総理大臣が決まっていたわけです。

 

このように明治憲法の下では、日本でリーダーシップをとる内閣は民衆の考えを反映した存在ではありませんでした。

 

とはいえ、民衆が国家に対して影響力を全く及ぼせなかったのか?というと、そういうわけではありません。

 

 

帝国議会

選挙権が限られた人にしか認められていなかったとはいえ、選挙を通じて民衆が国家に対して自分の意思を表明することができました。その民衆の意思表示の場所が、帝国議会の中の衆議院です。

 

 

国の予算や法律の成立には帝国議会の同意(協賛)が必要ということになっていました。そして、帝国議会の中の衆議院の議員は国民の選挙によって選ばれた人たちでした。

 

なので、内閣が「日本でこんなことをやりたい!」って考えたことを実現するためには、帝国議会の同意が(国民の同意が)不可欠だったんです。

 

でもこれって、内閣からしたら(大臣たちからしたら)迷惑っちゃ迷惑ですよね。「国民の意見を聞いてみんなで国を運営していくことはもちろん大事なんだけど、難しいこととか国のことがわかってなくて適当なことを言う庶民の意見なんか聞く必要ないでしょ!」って思っていても不思議ではないわけです。

 

 

ってことで、明治憲法体制は「なるべく国民の意見が反映されないようなシステム」になっていました

 

帝国議会は衆議院と貴族院の二院制になっていて、両方の同意を得ないといけません。衆議院の議員は国民の選挙によって選ばれた人たちでしたが、貴族院の議員は皇族や華族といった特権身分の人たち(選挙によって選ばれたわけではない人たち)でした。

※華族=公家や大名だった人たち

 

生活に余裕がある特権身分の人たち(ある程度”わかっていそうな”人たち)が国の政治のために呼び寄せられて、彼らの意見も反映されることになっていたわけです。

この点で、明治憲法体制は「普通の国民」の意見は反映されにくい構造になっていました。二院制だとはいえ、衆議院議員も参議院議員も選挙で選ぶ現代のシステムとはだいぶ違いますよね。

 

帝国議会=衆議院+貴族院

※両院は対等の権限を持つ

※ただし、衆議院が予算を先に審議できた

※予算案が成立しなかった場合は、内閣は前年度の予算をそのまま使うことができた

 

 

官僚

(内閣の立案→帝国議会の同意により)実際に実行することになった政策に関して、具体的な実務を行ったのが各省庁の官僚でした

各国務大臣は、各省庁で官僚に対してリーダーシップを発揮する存在です。

 

 

枢密院

条約や緊急勅令などの重要な国務に関して審議し、天皇にアドバイスする組織もありました。それが枢密院です。

 

このように、天皇はいろんな国家機関のサポートを受けて日本を統治することになっていました。結局誰が一番えらいのかよくわからないシステムですよね(これを「権力の割拠性」と言います)

 

 

裁判所

明治憲法体制では、裁判所もありました。

 

 

宮中

皇室関係の業務を扱う役所が宮内省です。

 

○○省のトップである大臣は内閣として集まって国の政治について話し合うことになっていましたが、宮内省に関しては例外でした。

 

「皇室が内閣にコントロールされないようにしよう」「皇室関係のことと国の政治関係のことははっきり分けよう」ってことで、宮内省は内閣の外に置かれ、宮内大臣は国の政治についての話し合いに参加しないことになっていました(宮中・府中の別)

 

宮中(皇居)には、天皇をサポートする官僚として、内大臣、侍従長、宮内大臣などがいました。特に内大臣は天皇の側近として、のちのち大きな政治的発言力を持つようになる重要な役職です。

 

 

軍隊はどのようにコントロールされた?

戦前には陸軍と海軍もありました。まとめて軍部と言います。

軍部関係のことで決めなきゃいけないことはいろいろあるわけですが、その中でも重要なこととして

  • 軍の規模をどれくらいにするのか?(兵力量)
  • 軍の中で誰をどんな役職につけるか?(人事)
  • 実際に戦う時にどうやって戦うのか?(作戦・用兵)

があります。

 

 

将棋で言うなら、

  • 何枚の駒で戦うか?駒の種類はどうするか?
  • どうやって駒を動かすか?

です。これらが決まっていないと(これらを考えないと)戦いにならないわけです。

 

んで、天皇大権のところで「天皇は陸軍や海軍に関して、兵力量を決めたり(←編制大権)、作戦の立案や指揮命令をしたり(←統帥権)できるよ」ってことになっていたと説明した通り、軍隊をコントロールする権限は天皇が握っています

 

が、天皇は他の国家機関のサポートを受けながら日本を統治する!っていうことになっていて、

  • 兵力量と人事についてサポートをするのは、内閣に属する陸軍省と海軍省
  • 作戦や用兵についてサポートするのは、内閣に属していない参謀本部と海軍軍令部

ということになっていました。

 

つまり、軍部のことに関して天皇のサポートをする組織は合計4つ(陸軍で2つ、海軍で2つ)あったということです。このことが、のちのち軍部が暴走することにつながっていきます→統帥権干犯問題

 

 

明治憲法体制の問題点

 

明治憲法体制の問題点は、「天皇が絶大な権力を持っていたけど、実質的に権限を行使するのは各国家機関で、各国家機関同士の対立が生じた時に調整を行う仕組みが用意されていなかったこと」です。

 

どういうことかというと、、、

 

天皇が絶大な権力を持っていて、天皇が自分一人ですべて決めるんだったら、それはそれで良いわけです。政府のメンバーはみんな天皇が考えている通りに動くので、(良くも悪くも)対立は生じないはずです。

 

ですが、明治憲法体制では、実質的に権限を行使するのは各国家機関です。天皇は絶大な権力を持っていて日本を統治する存在なんですけど、「実際に日本を統治する」わけじゃないんです。

そして、各国家機関は天皇と「個別に」紐づいている状態になっています。各国家機関はバラバラに存在していて、天皇の下にぶら下がっているっていう感じです。各国家機関同士を横に束ねる仕組みがありません(権力の割拠性)

 

これだと、各国家機関同士が対立した時にとっても困りますよね。日本でリーダーシップをとる内閣が「◯◯したい」って考えていても、それを許可するかどうかを決める権限を他の組織(枢密院、軍部)が持っていたりしています。このように横の連携が取れない(内閣が強制的に従わせることができない)ので、その組織が「いや、それはダメだ」って言ったら終わりなんです。

 

また、内閣総理大臣は内閣の中でそこまで大きな権力を持っているわけではありませんでした。例えば、内閣総理大臣は他の大臣を辞めさせる権限をが持っていません。なので、大臣同士が対立してしまった時は、内閣総辞職するしかない!って感じでした。

ちなみに、現代の日本では(日本国憲法の下では)、内閣総理大臣が絶大な権力を持っています。例えばある大臣が言うことを聞かなければ、その大臣を内閣から追い出すことができます。

 

また、議院内閣制という仕組みが採用されていて、内閣のメンバーの過半数は国会議員じゃなきゃいけません。内閣と国会が歩み寄っている体制になっています。あと、自衛隊の指揮権は内閣総理大臣が握っています。国家機関同士の対立が生じても、それを調整できるような仕組みになっているわけです。

 

ところが明治憲法体制は、「天皇が統治権を持っているけど実質的には統治権は行使しない」「それぞれの組織は天皇と個別に紐づいている」というシステムになっていたために、「この組織が強力なリーダーシップを発揮するんだ!」ってのが曖昧だったんです。

 

 

ただ、最初の頃はそれでも良かったんです。というのも、明治維新を成し遂げて明治新政府を作り上げた「一期生」のような人たちがいたからです。大御所的存在って感じです。これが、のちのち元老と呼ばれる人たちです。

 

元老

明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々。首相の推薦や重要な政策に関わった。黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌に、桂太郎と西園寺公望が加わった。

 

AKB48の一期生みたいなものです。一期生って、一期生っていうだけでスゴイ存在じゃないですか。高橋みなみとか前田敦子とか。モーニング娘。だったら中澤裕子とか安倍なつみとかですね。組織の立ち上げに関わった一期生って、やっぱり影響力があるんですよ。

元老は明治憲法には書かれていない非公式の存在ですが、彼らが国家機関同士の対立をうまいこと調整していたようです。仕組みで解決するっていうよりは、人で解決しようとしていた感じです。あの高橋みなみが、あの前田敦子が言うんだから、言われたことは守ろう、みたいな。

 

 

ですが、元老も人間です。どんどん死んでいっちゃうわけです。実際、1924年には元老は一人を残してみんな亡くなってしまっていました。最後の元老と言われる西園寺公望という人も1940年に亡くなります。

  • 黒田清隆(1900年に死去)
  • 伊藤博文(1909年に死去)
  • 山県有朋(1922年に死去)
  • 松方正義(1924年に死去)
  • 井上馨(1915年に死去)
  • 西郷従道(1902年に死去)
  • 大山巌(1916年に死去)
  • 桂太郎(1913年に死去)
  • 西園寺公望(1940年に死去)

 

対立を調整する存在がいなくなっちゃったんですよね。実際、歴史を勉強すると1920年代後半くらいから国家機関同士の対立を調整できずに内閣がアタフタしているのがわかると思います。結局、各国家機関の暴走(特に軍部の暴走)を止めることができず、日本は戦争へと突き進んでいったわけです。

 

 

ちなみに、国家機関同士の対立を調整する役割を担った元老が衰えてきたときに、その役割を担えそうな勢いを示していたのが政党でした。

 

 

ということで、1918年には本格的な政党内閣と言われる原敬内閣が成立して、1920年代は政党内閣がいくつも成立するわけです。政党内閣については別記事で説明していますので、よければご覧ください!

【日本史】原敬内閣が本格的な政党内閣と言われる理由

 

望岡 慶
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