【日本史】原敬内閣が本格的な政党内閣と言われる理由をわかりやすく解説

原敬内閣が本格的な政党内閣と言われた理由について説明をします!
先に結論
原敬内閣が「本格的な」政党内閣と言われた理由
- 原が華族でも藩閥出身者でもなく、衆議院に議席を持つ初めての首相だった(→だから「平民宰相」って呼ばれて国民から歓迎された)
- 陸軍・海軍・外務大臣以外はすべて立憲政友会のメンバーだった
※華族=元貴族、元大名。特権的身分のカリスマ的存在。
※藩閥=薩長土肥、特に薩摩藩・長州藩出身の有力者。カリスマ的存在。
これが結論なんですけど、これだけだと「なんで本格的なの?」って感じでいろいろわからなすぎると思うので、超丁寧に説明します。
「本格的な政党内閣」を理解するために
前提として理解しておいた方が良いことについて、いくつか話をします。
誰が日本でリーダーシップを取るのか?
まず、日本という国で誰がリーダーシップをとるのか?について。
「別にリーダーシップをとる人なんか決める必要なくて、全員で決めればいいんだよ!」っていう考え方もあると思いますが、実際には、毎回毎回一つ一つのテーマについて日本国民全員で集まって話し合って決めるのはかなり難しいですよね。
この前提に立つと(つまりリーダーシップをとる代表を誰かしら決めるとしたら)、いくつかの方法が考えられます。
- 天皇が一人だけでリーダーシップをとる
- 天皇以外の「特別な人(カリスマ的存在)」がリーダーシップをとる
- 天皇以外の「民衆が選んだ人」がリーダーシップをとる

大日本帝国憲法のもとでは、「天皇が一人だけでリーダーシップをとる」というシステムにはなっていませんでした。
日本のトップは天皇ではあるけども、その天皇を各国務大臣がサポートする(輔弼する)というシステムになっていた。なので、実質的には国務大臣たち(内閣)がリーダーシップをとることになっていました。

となると、実質的にリーダーシップをとる国務大臣たち(内閣)を誰が務めるのか?を考えなければいけません。
国務大臣たち(内閣)を誰が務めるのか?
現代の日本では、日本国憲法に
- 内閣総理大臣は国会議員である
- 国務大臣の過半数は国会議員である
と書かれています。リーダーシップをとる人の条件がちゃんと決まっています。

ところが、戦前の大日本帝国憲法には「リーダーシップをとる国務大臣たち(内閣)を誰が務めるのか?」について何も書かれていませんでした。っていうか「内閣総理大臣」という言葉すら大日本帝国憲法には出てこない。
じゃあどうやって大臣たちを決めていたのかというと、「次の内閣総理大臣になりなさい!」と命じられた人が、国務大臣たちを誰にするかを考えて組閣していました(←いろんな人と相談しながらだと思う)。

じゃあ国務大臣たちを選ぶ内閣総理大臣(首相)を、誰がどうやって決めるのか?
内閣総理大臣(首相)をどうやって決めるのか?
内閣総理大臣(首相)を選ぶのは、元老と呼ばれる人たちでした。
元老=明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々。首相の推薦や重要な政策に関わった。黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌に、桂太郎と西園寺公望が加わった。

- 天皇が元老に対して「内閣総理大臣を決めてくれ!」と命じる
- →元老が「誰が内閣総理大臣になるのがいいだろう?」って話し合う
- →一人に絞り込んだ候補者を天皇に伝える
- →天皇が内閣総理大臣に任命する
という形です。
現代の日本では、衆議院で一番多く議席を獲得した政党(最も票を獲得した政党)の党首が首相になる流れになっているので、内閣総理大臣は民衆の考えが反映された存在です。
しかし、大日本帝国憲法のもとでは、民衆の考えとは関係なく内閣総理大臣が決まっていたわけです。
とはいえ、民衆が国家に対して影響力を全く及ぼせなかったのか?というと、そういうわけではありません。
民衆の考えはどうやって反映されたのか?
選挙権が限られた人にしか認められていなかったとはいえ、選挙を通じて民衆が国家に対して自分の意思を表明することができました。
帝国議会の中の衆議院です。
※貴族院議員は選挙によって選ばれたわけではない

衆議院の議員たちは、同じような考えを持つ人々でグループを作ります。これが政党です。
※政党のメンバー全員が国会議員だったわけではない
つまり、政党は民衆の考えや意見を反映した組織だということです。
もちろん例外はありますが、衆議院で多くの議席をゲットしている政党は民衆の考えや意見を反映しているといえます。
内閣と政党の関係
ここまでをざっくりまとめます。
- 日本という国のリーダーシップは実質的には国務大臣たち(内閣)がとっていた
- 国務大臣たちを誰にするか?は内閣総理大臣が中心となって決めていた
- 内閣総理大臣は元老によって選ばれた
- 帝国議会の中の衆議院は選挙を通じて民衆が意思表示をできる場所だった
- 衆議院の議員たちは同じような考えを持つ人々でグループを作った(政党)
つまり、国のリーダーシップをとっていた内閣は民衆の意思を反映する構造にはなっていない一方で、政党は民衆の意思を反映する構造になっていたということです。

内閣は「日本ではこれが必要だ!」って考えた内容・政策を予算案や法律案にまとめます。
帝国議会(衆議院・貴族院)はその案を審議して「OKです!」「NGです!」っていう結論を出します。
この意味で、内閣と政党は対立する関係にあります。
とはいえ、内閣と政党はお互いにある程度歩み寄る必要があります。
内閣と政党が完全に対立してしまったら、内閣が「日本ではこれが必要だ!」って考えた内容・政策を実行できません。政党も、自分たちに票を入れてくれた民衆に応えるためには、国のリーダーシップをとる内閣と対立し続けるわけにはいきません。

そこで、内閣と政党がどれくらい歩み寄っているか?に着目して、内閣を分類してみます。
- 政党とは全く関係なく組織されている内閣
- 政党の影響をそこそこ受けている内閣
- 政党の影響をかなり受けている内閣
①政党とは全く関係なく組織されている内閣
「僕たち内閣が日本を引っ張っていくにあたって、政党には左右されませぬぞ!」っていう立場です。
これがいわゆる「超然主義」に立った内閣で、明治時代の最初の方はこれでした。明治維新を成し遂げた人たち(藩閥政治家)が日本でリーダーシップをとろうとしていたわけです。

②政党の影響をそこそこ受けている内閣
内閣総理大臣(首相)が政党のメンバーっていうわけではないんだけど、ある政党が味方になってくれている内閣です。
2パターンあります。
- 政党のメンバーが入閣していない内閣
- 政党のメンバーが入閣している内閣

③政党の影響をかなり受けている内閣
内閣総理大臣(首相)自身が政党のメンバーで、さらに国務大臣の多くを政党のメンバーが務めている内閣です。これがいわゆる「政党内閣」です。
そして、内閣総理大臣(首相)がどんな人なのか?に関して3つの観点があります。
- 藩閥政治家かどうか?
- 華族かどうか?
- 衆議院議員かどうか?

「内閣と政党が最も歩み寄っている」のは政党内閣
以上の3つのパターンで、内閣と政党が最も歩み寄っていると言えるのが、
- ③内閣総理大臣(首相)自身が政党のメンバーで、さらに国務大臣の多くを政党のメンバーが務めている内閣
- で、かつ内閣総理大臣(首相)が衆議院議員
のパターンです。しかし、1920年頃まで首相は藩閥政治家ばかりでした。
原敬内閣が「本格的な政党内閣」と言われる理由
原敬内閣は、内閣と政党が最も歩み寄っていると言える
- ③内閣総理大臣(首相)自身が政党のメンバーで、さらに国務大臣の多くを政党のメンバーが務めている内閣
- で、かつ内閣総理大臣(首相)が衆議院議員
のパターンの内閣の初めての例でした。

原敬内閣が成立する1918年までに、
- ③内閣総理大臣(首相)自身が政党のメンバーで、さらに国務大臣の多くを政党のメンバーが務めている内閣
が成立したことはありました。1898年の第1次大隈内閣がそうです。なので第1次大隈内閣は「政党内閣」と言われます。
ですが、この時の内閣総理大臣だった大隈重信は、藩閥政治家ではなかったものの、華族でした。つまり大隈重信は特権階級の人で、民衆から選挙で選ばれた人ではなかった。
だから第1次大隈内閣は「本格的な政党内閣」とは言われません。

一方、1918年に成立した原敬内閣の首相である原敬は華族でも藩閥出身者でもありませんでした。衆議院に議席を持つ人だったんです。
この意味で、原敬内閣は「本格的な」政党内閣でした。
















