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【日本史】大輪田泊とは?わかりやすく

モチオカ(望岡 慶)

大輪田泊(おおわだのとまり)についてざっくりまとめました!

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大輪田泊とは

摂津国福原に近い古くからの要港。平清盛が拡張し、中世以降も兵庫湊・兵庫島と呼ばれ、繁栄した。

日本史用語集 改訂版 A・B共用

兵庫の港(兵庫津)は神戸港の南西にある港。

神戸海洋博物館にて(2023.6撮影)

良港な理由

  • 北風が六甲山により遮られるので波が穏やか
  • 兵庫津の南にある出っ張り(和田岬)のおかげで波が穏やか(←西風と明石海峡の強い潮流を防ぐ)
  • 水深が深い
  • 干満差が少ない
  • 政治経済の中心地であった京都・大阪に近い

大輪田泊に関する主な歴史的事項

奈良時代

行基が整備した

兵庫県立兵庫津ミュージアムにて(2023.6撮影)

平安時代

平清盛が私財を投じて荒れていた大輪田泊を整備した(→日宋貿易に活用)

兵庫県立兵庫津ミュージアムにて(2023.6撮影)

一ノ谷の戦い(源平合戦)の戦場の一つとなる

鎌倉時代

僧 重源による改修を経て、兵庫津(ひょうご の つ)と呼ばれるようになった。

※平家によって焼かれた東大寺を再建するにあたり、山口で伐採した木材を運ぶために大輪田泊を活用する必要があった

南北朝時代

足利尊氏は鎌倉幕府滅亡後に建武の新政を行った後醍醐天皇に対抗し、後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成らと戦った(湊川の戦い)。

※兵庫津は西国から京都へ荷物を運ぶ重要な港だった。そのため、京都(政権)を掌握するうえで、兵庫津をおさえることが極めて重要だった(←その争奪戦=湊川の戦い)

室町時代

日明貿易の拠点港として栄えた。

江戸時代

江戸時代には瀬戸内海経由の北前船と江戸・大坂間の定期航路の菱垣廻船・樽廻船の寄港地として栄えた。

幕末

日米修好通商条約(安政の五カ国条約)により、兵庫が開港場となった(1863年開港予定)。

しかし、幕府は1862年にヨーロッパに使節を派遣して兵庫開港を5年先延ばしにしてもらった。

  • (理由)兵庫は京都に近いため、天皇が兵庫開港を許さなかった
神戸海洋博物館にて(2023.6撮影)

1868年、兵庫に代わって神戸が開港された

  • (理由1)すでに大都市だった兵庫津に外国人居留地を設けるのは困難
  • (理由2)たくさんの日本人が住んでいる兵庫を開港すると外国人と日本人の間でトラブルが起きる可能性が高い
神戸海洋博物館にて(2023.6撮影)

明治時代〜

神戸港の発展とともに、地域の中心地が兵庫津周辺から東の方(元町、三宮)へと移動した

→神戸港については別記事で

【日本史】「開港場が兵庫から神戸に変わった」とは?【日米修好通商条約】
【日本史】「開港場が兵庫から神戸に変わった」とは?【日米修好通商条約】
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