【日本史】大日本帝国憲法の問題点をわかりやすく:リーダーは一体誰?

明治憲法体制の問題点は、
「天皇が絶大な権力を持っていたけど、実質的に権限を行使するのは各国家機関で、各国家機関同士の対立が生じた時に調整を行う仕組みが用意されていなかったこと」
です。
どういうことかというと、、、
国家機関同士を横に束ねる仕組みがない(権力の割拠性)
天皇が絶大な権力を持っていて、天皇が自分一人ですべて決めるんだったら、それはそれで良いわけです。
政府のメンバーはみんな天皇が考えている通りに動くので、(良くも悪くも)対立は生じないはずです。
ですが、明治憲法体制では、実質的に権限を行使するのは各国家機関です。天皇は絶大な権力を持っていて日本を統治する存在なんですけど、「実際に日本を統治する」わけじゃないんです。

そして、各国家機関は天皇と「個別に」紐づいている状態になっています。各国家機関はバラバラに存在していて、天皇の下にぶら下がっているっていう感じです。各国家機関同士を横に束ねる仕組みがありません(権力の割拠性)。

これだと、各国家機関同士が対立した時にとっても困りますよね。
日本でリーダーシップをとる内閣が「◯◯したい」って考えていても、それを許可するかどうかを決める権限を他の組織(枢密院、軍部)が持っていたりしています。
このように横の連携が取れない(内閣が強制的に従わせることができない)ので、その組織が「いや、それはダメだ」って言ったら終わりなんです。

内閣総理大臣は他の大臣を辞めさせる権限を持っていない
また、内閣総理大臣は内閣の中でそこまで大きな権力を持っているわけではありませんでした。
例えば、内閣総理大臣は他の大臣を辞めさせる権限を持っていません。なので、大臣同士が対立してしまった時は、内閣総辞職するしかない!って感じでした。

ちなみに、現代の日本では(日本国憲法の下では)、内閣総理大臣が絶大な権力を持っています。例えばある大臣が言うことを聞かなければ、その大臣を内閣から追い出すことができます。
また、議院内閣制という仕組みが採用されていて、内閣のメンバーの過半数は国会議員じゃなきゃいけません。内閣と国会が歩み寄っている体制になっています。
あと、自衛隊の指揮権は内閣総理大臣が握っています。国家機関同士の対立が生じても、それを調整できるような仕組みになっているわけです。

ところが明治憲法体制は、「天皇が統治権を持っているけど実質的には統治権は行使しない」「それぞれの組織は天皇と個別に紐づいている」というシステムになっていました。
「この組織が強力なリーダーシップを発揮するんだ!」ってのが曖昧だった。
ただ、最初の頃はそれでも良かった。というのも、明治維新を成し遂げて明治新政府を作り上げた「一期生」のような人たちがいたからです。大御所的存在って感じです。
これが、のちのち元老と呼ばれる人たちです。
元老という非公式な存在に頼っていた

元老=明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々。首相の推薦や重要な政策に関わった。黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌に、桂太郎と西園寺公望が加わった。
AKB48の一期生みたいなものです。一期生って、一期生っていうだけでスゴイ存在です。高橋みなみとか前田敦子とか。モーニング娘。だったら中澤裕子とか安倍なつみとかですね。
組織の立ち上げに関わった一期生って、やっぱり影響力があります。
元老は明治憲法には書かれていない非公式の存在ですが、彼らが国家機関同士の対立をうまいこと調整していたようです。
仕組みで解決するっていうよりは、人で解決しようとしていた感じです。あの高橋みなみが、あの前田敦子が言うんだから、言われたことは守ろう!みたいな。
国家の暴走へ
元老がどんどんいなくなる
ですが、元老も人間です。どんどん死んでいっちゃうわけです。実際、1924年には元老は一人を残してみんな亡くなってしまっていました。最後の元老と言われる西園寺公望という人も1940年に亡くなります。

- 黒田清隆(1900年に死去)
- 伊藤博文(1909年に死去)
- 山県有朋(1922年に死去)
- 松方正義(1924年に死去)
- 井上馨(1915年に死去)
- 西郷従道(1902年に死去)
- 大山巌(1916年に死去)
- 桂太郎(1913年に死去)
- 西園寺公望(1940年に死去)
大日本帝国憲法の弱点を克服する存在、対立を調整する存在がいなくなってしまいました。
実際、歴史を勉強すると1920年代後半くらいから国家機関同士の対立を調整できずに内閣がアタフタしているのがわかると思います。
政党内閣はうまくいかず・・・
ちなみに、国家機関同士の対立を調整する役割を担った元老が衰えてきたときに、その役割を担えそうだったのが政党でした。

「『民衆の選挙によって選ばれた人たち』によって構成された内閣」なら、絶大なパワーをもって国家機関同士の対立を調整できるのでは?と期待された。
ということで、1918年には本格的な政党内閣と言われる原敬内閣が成立して、1920年代は政党内閣がいくつも成立するわけです。


しかし政党内閣でもダメだった。結局、大日本帝国憲法下の日本は各国家機関の暴走(特に軍部の暴走)を止めることができず、戦争へと突き進んでいったわけです。













