【日本史】幕末の貿易と、幕府への不満の高まりをわかりやすく

1858年に日米修好通商条約を結んで、欧米人が日本でビジネスをする=商売をすることになりました。
その結果、それはそれは大変なことになったよ・・・っていう話
日米修好通商条約を結び、貿易がスタート
1859年、横浜・長崎・箱館で欧米諸国との貿易が始まりました。
※条約には「神奈川」を開港するって書かれていたけど、神奈川は人通りが多く日本人と外国人のトラブルがたくさん起きそうだったので、外国人を遠ざけるために横浜に開港場が変わった。



貿易の特徴についてざっくりまとめるとこんな感じです↓
中心となった港
横浜(全体の8割)




貿易相手
イギリス人が中心。アメリカは南北戦争(1861〜65)のため後退。
主な輸出品
生糸が8割。(他には茶・蚕卵紙・海産物など)
主な輸入品
毛織物・綿織物が中心。
貿易収支
輸出>輸入
欧米諸国との貿易が始まったことによる変化
貿易が始まった結果、人々の「今までの日常生活」が揺らぐことになって、人々は混乱。不安に。
具体的にどんな変化が起きたのか?3つ説明します。
国内産業の明暗が分かれた
製糸業
欧米人は日本の生糸をたくさん買ってくれたので、生糸の原料となる蚕を育てる養蚕業や、蚕の繭から生糸にする製糸業が急速に発展することになりました。
絹織物業
一方で、原料生糸が不足したり値段が高くなったりしたため、生糸を原料にして布を作る絹織物業は打撃を受けました。
綿作・綿織物業
また、日本はイギリスから安い綿織物をたくさん買ったので、日本の綿作・綿織物業は動揺することになりました。


商品の移動の仕方が変わった
港の居留地にいる外国商人と日本の商人との間で商売が行われるようになって、主な輸出品であった生糸は、日本人相手に売るよりも外国人相手に売った方が高く売れるという状況でした。
で、「日本人に売るよりも港で外国商人に売った方がむっちゃ儲かるやん!」って気づいた人々が、江戸・大坂の問屋を経由せずに産地から直接、横浜の港に商品を持ち込むようになったんです。

その結果、今までの商品の移動の仕方(流通機構)が崩れて、国内市場で品物不足になり、全体的にモノの値段がアップして日本経済に混乱が生じることになってしまいました。
この状況に対して幕府は、1860年に生糸などの5品目は江戸経由で横浜に送りなさい!っていう命令を出した(五品江戸廻送令)
・・・んですけど、あまりうまくいかなかったようです。

物価が上がった
輸出が盛んに行われてモノが不足したため、国内でモノの値段が上がってしまうことになりました。

また、金の国外流出を防ぐために質を落とした金貨を発行したことも、国内での物価上昇を加速させました。
どういうことかというと・・・
自由貿易がスタートした結果、日本にあった金貨が海外に大量に流出してしまうことになりました。
というのも、貨幣は同じ種類を同じ量で交換するルールになっていたのにもかかわらず、日本と欧米諸国で金と銀の価値が違ったからです。
- 日本では、金と銀の交換比率は重量比で金1:銀5でした。
- 一方、欧米諸国では、金と銀の交換比率は重量比で金1:銀15でした。

このことを知った欧米人が、通貨の交換をグルグル回したら超お得じゃん!錬金術やないかい!ってことに気づきました。
- 外国の銀貨を4枚、日本に持っていく
- →外国の銀貨4枚を日本の銀貨12枚と交換する
- →日本の銀貨12枚を日本の金貨3枚と交換する(金1:銀5の比率)
- →日本の金貨3枚を欧米諸国に持っていく
- →日本の金貨3枚を外国の銀貨12枚と交換する
- →外国の銀貨を12枚、日本に持っていく
- →外国の銀貨12枚を日本の銀貨36枚と交換する
- →日本の銀貨36枚を金貨9枚と交換する(@日本)
この結果、日本にあった金貨が海外に大量に流出することになってしまいました。


これに対して幕府は、含まれている金の量を減らした小判を新たに作るという対応をしました。具体的には、重さ(量目)を3分の1に減らした小判である万延小判を作りました。
小判に含まれている金の量が減れば、金の海外流出を抑えられる!という理屈からです。
が、この結果、小判1枚の価値が3分の1になってしまったわけなので、モノを買うのに今までよりも多くの貨幣が必要になってしまいました。
金の海外流出は防ぐことができましたが、物価がものすごくアップしてしまった。そうなると、人々の「今までの日常生活」が揺らぐことになりますよね。
幕府への不満が高まる
貿易開始による不満
以上のように、貿易がスタートした結果、
- 国内産業の明暗が分かれ、
- 商品の移動の仕方が変わり、
- モノの値段が上がった
ことで、人々の「今までの日常生活」が揺らぐことになって、人々は混乱したり不安になったりしました。
こうなってしまうと、人々が「幕府め、このやろー!」って思うのも無理ありません。

天皇の勅許を得ずに条約を結んだことへの不満
また、孝明天皇の勅許を得ずに条約を結んでしまったことに対しても批判が起こりました。
幕府の中心にいたのは南紀派の井伊直弼で、幕府は孝明天皇の勅許を得ずに条約を結びました。


将軍の後継者争いへの不満
条約が調印された後、13代将軍家定の後継者争いは南紀派の勝利で決着がついて、幕府は「徳川慶福が次の将軍になるよ!」って発表しました(→慶福は徳川家茂と改名)。
条約調印でも将軍の後継ぎ争いでも、南紀派の井伊直弼の勝利!
となると、南紀派と対立していた一橋派からしたら面白くありません。彼らは井伊直弼に対して「ちくしょう…」っていう感情を抱き、「ふざけんな!」って感じで幕府の政策を批判します。


井伊直弼への不満
そうやって幕府を批判してきた人たち(徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬など)を、井伊直弼はぶちのめしてしまいます(1858〜59安政の大獄)。
でもそんなことしたら、ますます幕府に対して「ふざけんじゃねえコンニャロクソヤロー!」ってなりますよね。
こうして、大老の井伊直弼は水戸藩を脱藩した武士によって暗殺されてしまいました(1860桜田門外の変)。



ざっくりまとめると、
- 欧米諸国が日本にやってきて日本が危機的な状況に陥っている中で、
- 「この国をどうするべきか?」に関して国内で対立が起き、
- 今まで日本を引っ張ってきた幕府の中もぐっちゃぐちゃになっている…
ということです。

尊王攘夷運動や世直しを求める風潮が広まった
こうして、貿易開始による人々の混乱・不安と幕府への反発が合わさって、尊王攘夷運動や世直しを求める風潮が広がることになりました。
尊王攘夷運動っていうのは、ざっくり言うと「天皇ダイスキ!外国ブットバセ!」っていう運動のことです。
世直しっていうのは「世の中を良くしてくれ!」っていう運動のこと。世直しを掲げた百姓一揆や打ちこわしが発生したり、世直し的な思想をもつ宗教(天理教・金光教など)が流行したりすることになりました。

この後、いよいよ「幕府をぶっつぶして日本を再生するぞ!」っていう動きが加速していくことになります。続きは次の記事で!












