原始・古代

【日本史】荘園とは?わかりやすく(初期荘園、寄進地系荘園:古代の土地制度)

モチオカ(望岡 慶)

古代の土地制度について説明します!

  • 荘園とは何なのか?
  • 寄進とは何なのか?
  • 公領とは何なのか?
モチオカ
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【重要】土地は富の基盤

まず大前提として、日本の歴史上、土地はものすごく重要なものでした。(っていうか今も重要)

土地は富の基盤です。

稲作が伝わって農業を本格的にやるようになった結果、土地をどれだけ持っているか?が、その人がどれだけ豊かになれるか?を決めるようになります。

土地をたくさん持っていればたくさん食べ物(富)を作ることができるし、土地を少ししか持っていなければ少ししか食べ物(富)を作れない。このように、土地は富の基盤だった。

だから、土地はすごく重要です。

このことが土地の歴史を理解する時の大前提です。

古代の土地制度の移り変わり

縄文時代

まず縄文時代から。

縄文時代では、人々は動物を狩ったり木の実をとったり魚や貝をとったりして生活をしていました。なので、土地の所有はそこまで重要ではなかったはずです。

弥生時代に土地の重要度がアップ

やがて、中国や朝鮮半島から日本に稲作が伝わりました。

稲作は広い土地で行えばその分、たくさん米が取れます。そのため、稲作が伝来して以降、「土地をたくさん持つ」ことが重要になります。これが弥生時代です。

豪族による私地私民

やがて、人々はだんだんと大きな集団で生活するようになり、村を作り、広い地域がまとまって国ができました。その国をまとめていたリーダーのことを豪族と言います。人々は豪族のリーダーシップのもと、土地をもっと獲得するために他の村や国を攻撃したりしました。

ただ、「各地のリーダー(豪族)がそれぞれの地域とそこに住む人々をまとめている」という地方分権的な状況だと、困ることがあります。

それは、中国などの強い国が攻めてきた時。強敵と戦う場面が来た時です。

強敵と戦う時、バラバラでは勝てません。各地の豪族がそれぞれ土地と人々を支配している状態ではいけません。豪族同士で縄張り争いをしている場合ではありません。

各地のリーダーたちが協力し合って、日本全体でまとまり、強敵に対抗できる強い軍隊を作る必要があります。

対外的危機を背景に公地公民へ

実際、日本は「中国が攻めてくるかもしれない」という危機感を抱くことになりました。

その結果、日本列島では「豪族の中で最も力を持っていたリーダー的存在=大王(天皇)に権力を集中させよう」っていう動きが生じました。豪族が土地と人々を支配するんじゃなくて、大王(天皇)が土地と人々を支配するようにしよう!という動き。

この結果できあがった仕組み、大王(天皇)が土地と人々を支配する仕組みのことを公地公民と言います。

対外的危機を背景に、富の基盤である土地が大王(天皇)のものになった。もちろん豪族たちからは相当の反発がありましたが。

この公地公民へと変化する動きが起きたのが、飛鳥時代あたりです。

律令国家体制のもとで公地公民が実現

で、律令国家が生まれました。奈良時代です。

律令国家では、公地公民(土地とその中の人々は天皇のもの)となりました。

班田収授法

律令国家では、天皇のもの(国のもの)である土地を6歳以上の全ての人にプレゼントします。この土地(田んぼ)のことを口分田と言います。

口分田を与えるにあたって、律令国家は戸籍っていう名簿を作りました。どこにどれだけの人が住んでいるのか?を把握して、その戸籍にもとづいて6年に1回、6歳以上の全ての人に口分田を与えた。

この6歳以上の全ての人に口分田を与えることを定めたルールを班田収授法と言います。

なんでこんなことをしたか?というと、人々の生活を保障するためです。

律令国家では人々にいろんな負担(=税)をしてもらっていました。が、ただ「負担だけしてくれ」っていうのだけだとマズい。生活を保障してあげずに人々が死んじゃったら、負担してもらえなくなってしまうから。

だから、律令国家は「農業をして、食べ物を確保して生活できるようにしてね」ってことで、人々の生活を保障するために田んぼ(=富の基盤である土地)を与えていました。

ところが、この制度を計画通りに実行するのはものすごく大変でした。

まず、作業が大変だった。戸籍っていう名簿を作って、土地を準備して、それを人々に与えて…っていう作業が大変すぎる。6年に1回の作業とはいえ、大変すぎて、口分田を与えるのが遅れがちになったりもしたらしいです。

あと、口分田が足りなくなったりしました。奈良時代の初めに人口がかなり増加したため、プレゼントする田んぼ(口分田)が足りなくなってしまったみたいです。

天然痘っていう感染症が大流行した聖武天皇の頃には、人が死にまくって口分田が荒れたりもしました。ちゃんと人々の生活を保障できるような土地を準備するのが難しくなってしまった。

これらの理由で、班田収授法を計画通りに実行するのは相当に大変でした。

で、律令国家は対策をします。

墾田永年私財法で土地の私有を認める(荘園の誕生)

口分田の不足に対して、人々に開墾(ボーボーに荒れた土地を農業ができるように耕すこと)してもらうようにしました。これが743年に出された墾田永年私財法です。この法は、新しく開墾した土地の私有を認めるものでした。

墾田永年私財法が出された結果、農民のなかでうまくいっていた人は「よっしゃやるぜー」ってなって、土地を開墾しまくって私有地を広げていきます

また、貴族や寺院も「よっしゃやるぜー」ってなって、土地を開墾しまくって私有地を広げていきました

墾田永年私財法の後にできた私有地のうち、貴族や寺院の私有地のことを荘園と言います。

律令国家では土地は天皇のもの(国のもの)でした。が、自分で開墾した土地は「あなたのものですよ」っていうことになった

ただ、税を納めなくてもOKっていうわけではありませんでした。「有力な農民が新しく開墾した土地」も「貴族や寺院が開墾して作った荘園」も、どっちも税を納める必要のある土地とされました。

墾田永年私財法の後、貴族や寺院が新しく開墾して作った私有地(荘園)のことを初期荘園と言います。

この初期荘園には、エリアの中に農業をしてくれる人がいません。新しく開墾された新しい土地だからです。なので、近くにいる農民に荘園の土地を貸してあげて、レンタル料を取るっていう形で運営をしていたそうです。

この荘園を持っている貴族・寺院の中には、政府と関係を築いて税を納めなくても良い特権を認めてもらう人もいました。

平安時代頃には、律令制による統治が限界に

ここから後半です!後半の動画はこちら↓

律令国家の土地の管理の仕方をいったんまとめます。

  • どこにどれだけの人が住んでいるのか?を把握して、戸籍という名簿を作る
  • 土地(口分田)を準備する
  • 戸籍にもとづいて、6歳以上の全ての人に口分田を与える(富の基盤を人々に与えて、生活を保障する)
  • 計帳にもとづいて税を集める
  • 新たに開墾した土地の私有を認める

律令国家は「6歳以上の全ての人に口分田を与える」ことで生活を保障し、人々に国家運営(=社会の維持)のために税を納めてもらう。ここがポイントです。

ところが、9世紀末頃になると「戸籍・計帳に登録された男性を中心に税を課す」っていう制度が崩壊状態になりました

名簿が「どこにどれだけの人が住んでいるのか?」を正確に記録したものではなくなってしまったからです。名簿を見てみると、女性の人数が不自然すぎるくらい多くなっていたり。

律令国家はおもに男性から税をとる方針だったので、名簿でズルをして女性の人数を多くしてしまえば、税から逃れることができるからです。

あと、戸籍に登録された場所から人々が逃げ出しちゃったりもしていました。

このように、名簿(戸籍・計帳)が実態と合わなくなってしまった。そうなると、口分田をプレゼントしたり、税を集めたりできなくなります。

「土地とその中の人々は天皇のもの(公地公民)。国家は土地を人民に配り、税を納めてもらう」という奈良時代に作った土地システムは、100年ほどで崩壊状態に。

土地の管理・徴税システムを変える(受領に任せる)

そこで朝廷は、国司のトップの人に権限と責任を集中させて「国内の支配は任せるから税を集めて持ってきてね」ってことにしました。

国司っていうのは、各地(国)の仕事をする役人のことです。権限と責任が集中した国司の最上級の地位のことを受領って呼ぶようになります。

このように、律令国家は戸籍・計帳に登録された男性を中心に税を課すという方針をやめて、受領に税を集めるのを任せることにしました。

こうなると、受領はおいしいポジションになります。

朝廷に税さえ納めれば何をやっても良いって感じになったので、わざと多めに集めて、余った分を自分の財布に入れることもできちゃうからです。

つまり、受領からすると「税を課すことのできる土地」が増えれば増えるほどうれしい。

このような理由もあって、受領は土地を開発したり再開発したりしてくれる人に対して、「税を少なくしてあげますよ」とか言ったりして優遇しました。こうして10世紀頃から積極的に土地を開発した人のことを開発領主と言います。

開発領主の中には、貴族の中でランクが低めの下級貴族が多くいました。ランクが低めの貴族は政府の中で出世する見込みがありません。だからこそ、地方に行っておいしいポジションにつこうとしたということです。例えば国司になったりとか。彼らは地方に住みついて、土地を開発して開発領主になり、それで利益を得る。

「税から逃れる方法」がいくつも考案される

税を集める権利を握った受領は、自らがたくさん儲けるために税率をすごく高くしたりもしました。

そうなると、税を納める人は税からますます逃れたくなります。いつの時代も、人間は「税を納めたくない、お金を取られたくない!」って思っています。

税を逃れるために、人々はいろんな工夫をします。

免税特権を認めてもらう(貴族・寺院)

荘園を持っている貴族や寺院は、政府や受領と関係を築いて税を納めなくても良い特権を認めてもらおうとします。

このような荘園は、単に田んぼだけじゃなくて人々の家とか山とか川とかを含んだ結構広いエリアだったらしいです。さっき説明した初期荘園とはそのあたりが違います。

ただ、政府や受領と関係を築いて税を納めなくてもOKな特権を認めてもらうのが難しい人々もいます。(開発領主)

そういう人だって税から逃れたい。

武装する

武装をして武力で税から逃れようとする人もいました。(土地を開発した開発領主は、武装をしていることが多かった)

寄進する(寄進地系荘園)

寄進(きしん)をするっていう方法も考案されました。

受領(国司)は「新しく開墾した土地は税を納めなきゃいけない土地だ」っていうことを根拠にして税を取ろうとしてきます。

そこで、税から逃れたい人は中央政府の有力な貴族や寺院を見つけて、彼らにこう言います。

「税から逃れたいので、この土地をあなたのものってことにしてくれませんか?この土地を受領(国司)から守ってくださるのであれば、あなたに手数料をお支払いいたしますので」

これを寄進と言います。

寄進を受けた貴族や寺院はその土地の所有者ってことになります。

貴族や寺院の私有地のことを「荘園」と言いました。なので、寄進を受けた貴族や寺院はその荘園の所有者(荘園領主)になります。

このようにして生まれた荘園、寄進によって生まれた荘園のことを寄進地系荘園と言います。

寄進にはちゃんと正式な手続きが必要です。「ここからここまでが荘園ですね」っていう感じで。

こうして寄進地系荘園ができあがると、その土地を開発した実質的な所有者は、その土地にいる農民から税(収穫物)を集めてそれを荘園領主に手数料として払う

荘園領主は、その土地を開発した人から手数料をもらう代わりに、税を集めようとする受領(国司)からその土地を開発した人を守ってあげる。

なんで守ることができるのか?

受領(国司)を任命するのは中央政府だからです。中央政府の有力者と受領(国司)はズブズブの関係になっていますので、「この土地はあの有力者のものですよ…?いいんですか?」って言われちゃうと、そこの土地から税を集めにくくなっちゃうんです。

「なんだこれ、むちゃくちゃじゃん」って思うかもしれませんが、その通り!もうむちゃくちゃでした。自分の利益をゲットできれば何でもありっていう世界になってきた。

  • 受領は自分の収入を増やせればそれでいいし、
  • 人々は税から逃れられればいいし、
  • 貴族や寺院は手数料をもらえればそれでいいし、

って感じで、いろんな人の思惑が複雑に絡み合ってバランスが保たれていました。だんだん中世っぽくなってきました。

(※国司の方が力関係的に上で、お構いなしに税を集めようとすることもあった) 

荘園整理令と荘園公領制

とはいえ、税を納めなくてOKな荘園が増えると、受領に税を集めてもらっている朝廷(中央政府)は困ります。収入がなくなるまではいかなくとも、収入が結構減ってしまう。

ってことで、天皇は荘園整理令っていうのをしばしば出して、対策を行います。税を納めなくてもいいことになっている荘園をちゃんと審査して、「本当かな?」って確かめた。

最初の方はこの審査の作業を国司がやっていたので、あまり効果は上がらず。そこで、後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令っていうのを出します。審査のためのちゃんとした役所を作って、天皇がリーダーシップをとって荘園チェックを行いました。

この結果、「税を納めなくてもOKな、ちゃんとした荘園」と「税を納めなければいけない荘園」がはっきり区別されることになりました。

「税を納めなければいけない荘園」を持っていた人は諦めません。いつの時代も、人間は「税を納めたくない、お金を取られたくない!」って思っています。

彼らは、税を逃れるために寄進をしまくります。

こうして日本列島の土地は、貴族や寺院の私有地である荘園と、国の土地である公領とにはっきり分かれました。(荘園公領制

動画でも解説

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