日本

ブルターニュ展を観て考えたこと【2023年5月】

モチオカ(望岡 慶)

友人に誘われて、上野の国立西洋美術館で開催された「憧憬の地 ブルターニュ」という企画展に行きました。

絵を観ながら会場で書いたメモを(自分のために)ブログに残しておこうと思います。

憧憬の地 ブルターニュより

最初は「わけわかんない辺境の地に行って絵を描くなんてよくやるよなー」って、感心半分、呆れ半分の気持ちでした(失礼)。

でも次第に、行ったことのない土地、見たことがない光景が広がっている土地に行きたがるのが人間だよなー・・・って共感するようになった。

画家たちは、ブルターニュの地で心打たれた風景をひたすら描いた。自分の目を通して見た「世界」を記録に残した。

誰のためではなく、おそらく自分のために。

ただ自分の目で見てみたいから行ったし、描きたいから描いたんだ。

それに気づいた瞬間、ブルターニュに行った画家たちと自分の姿が重なった。

僕もただ「自分の目で見てみたい」という理由で旅をしているし、ただ「書きたい」から記録に残している。

ブルターニュに行った画家のことを最初は内心バカにしていたけど、まさに自分自身が同じことをしていた。

「憧憬」に導かれて動くこと。これこそが人間の性、人間の人生なのだろう。

※僕自身を正当化するために思っただけなのかもしれないけど

★★★

ここで、新たな問いが頭をよぎった。

ブルターニュ展に来ている人はどんな人なのだろう?

おそらく、ブルターニュにものすごく興味があって「ブルターニュ展」を今まで待ち望んでいた…っていう人はほぼいないと思う。

ほとんどの人は、企画展が行われることを知って、なんとなく面白そうだと思って、上野に来た人なはずだ。事実、僕自身がそうだ。

そんな人たちが、2100円の入場券を買ってブルターニュに行った画家たちの絵を見る。画家が「ただ自分のためだけに描いた」であろう絵(少なくとも、100年後の日本人のために描いたわけではない絵)を見る。

そして、最初の僕みたいに「よくこんな絵を描きにいくよな」って思ったり、なんとなくいいなと思ったり、心を打たれたりする。

ブルターニュに行った画家は100年後にこんなことが起きているなんて、思いもしなかっただろう。ただ自分のためだけに描いた絵が、1世紀という長い年月を経て、日本人にとって価値のあるものになったのだ。

★★★

現代社会に生きていると、誰かのためになること(誰かにとって価値のあること)をしなきゃいけない、という強迫観念に駆られる。

そのことは決して否定されるべきものではないとは思う。

だけれども、同時に、「自分がやりたいことをやる」「憧憬に導かれて動く」ということも否定されるべきではないのだと思う。

もちろん誰かのためになることを簡単に思いついて実行できる器用な人が世の中にはそれなりいて、そういう人に僕は憧れていたわけだけど、、、

僕のような不器用な人は、ただ自分がやりたいことをやればいいのかなと思った。自分の人生は自分のためにあるのだから。


…と、

むちゃくそポエってますが、

しんどい思いをしている将来の自分のためにブログにしました。

お読みいただきありがとうございました。

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