福岡城・鴻臚館に行ってきた【2022年3月】
2022年3月に福岡城と鴻臚館(こうろかん)に行ってきました。
その旅行記をブログ記事として残しておきます!
鴻臚館跡展示館
市営地下鉄「赤坂駅」を降りて約10分、まずは福岡城敷地内にある鴻臚館跡展示館に行きました!
なぜ福岡城内を探索する前に鴻臚館に向かったのかというと、日本100名城のスタンプを押したかったから笑 (入館の締切時間にギリギリに到着…これで一安心!)
※福岡城は日本100名城の一つ
鴻臚館とは
7世紀後半に博多湾の近くに置かれた外交の拠点。
奈良時代から平安時代の初めの頃まで、中国や朝鮮(新羅)からの外交使節をもてなしたり、遣唐使などの宿泊地として利用されたそうです。
また、平安時代半ばからは外国からの商人が往来する交易の拠点施設となり、後の中世都市博多が生まれる先駆的な役割を果たしたとのこと。
※「鴻臚館」は古代における外交施設のことで、平安時代には福岡(筑紫)、大阪(難波)、京都(平安京)の3ヶ所に置かれた。その跡が確かめられたのは福岡の鴻臚館だけ(←1987年からの発掘調査)。
※福岡の鴻臚館はもともと筑紫館という名前だったらしいですが、のちに鴻臚館(こうろかん)って呼ばれるようになったのだとか。
大宰府と鴻臚館の関係
大宰府=日本古代律令国家の外交・軍事の一端を担い、かつ西海道(九州)全体を統括した、当時としては最大の地方官衙(役所)のこと。
鴻臚館は太宰府の出先施設。
鴻臚館は交易の拠点
鴻臚館には、新羅・唐・宋の商人などによって、多種多様な文物がもたらされた。
鴻臚館に行って考えたこと
当たり前ですけど、日本って昔から東アジアとの交易が盛んだったんだな…よく考えてみるとそれって結構すごいことだよな…!って改めて感じました。
飛行機や大型の船がない時代に、大きな海を越えて外国の人々と交流をしていたわけですよ。船が沈没して死ぬかもしれないんですよ。そんなリスクを冒してでも、外国と交流していたという事実。すごくないですか?
それくらい、外国と付き合う(=自分とは違う人々と交流し、違う文化に属する人が作ったものを入手する)ことに価値があったということです。
そしてそれは現代でも変わらないはず。自分が属するコミュニティの中だけで小さくまとまってしまったら、たぶん人生は面白くない。安心はできるかもしれないけど。
って考えると、お隣の国である中国や韓国との関係性があまり良くない現状は、よろしくないなあ…って感じですよね。思う存分、お互いに交流できた方が楽しいですよね。きっと。(いやそんなの当たり前じゃん、鴻臚館に行かなくてもそんなのわかってるわ!って感じのこと言ってますが)
疑問に思ったこと
・海を越えるというリスクを冒して外国と交流していた人は、どういう属性の人だったのか?(単なるチャレンジャーなのか、有力者の駒のように扱われていた人だったのか?)
・古代から、日本は中国や朝鮮と仲が悪かったのか?(本当は「ムカつくなー、あいつら嫌だなー」ってお互いに思っていたんだけど、情報やモノを手に入れるために割り切って付き合っていたのか?)
福岡城
福岡城とは
黒田長政が築いた城。
- 黒田長政は、1600年に起きた関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍を勝利に導く活躍を見せた。
- →その功績によって、徳川家康から筑前52万石(博多湾沿岸を含む広い領地)が与えられた。
別名は舞鶴城(海側から見た白の形が空を舞う鶴の姿に似ていたから)。
天守台
福岡市街を見渡すことができる天守台があります。
のどかで落ち着くー
この先に博多湾があります。昔は海を一望することができたのでしょうね。
ちなみに、天守閣の存在を確定する資料は残っていないらしく、天守閣が存在していたかどうかはわからないとのこと。
天守閣を作らない城もあったんですね。なるほど。
まあ確かに天守閣ってただのシンボル的な存在で、江戸幕府の支配が確立してからは必要なくなったわけですもんね(むしろ作らない方が徳川家との関係的にも良さげ)。
多聞櫓(たもんやぐら)
江戸末期に福岡城に存在した櫓の中で唯一、築城当時の位置に現存する。国指定重要文化財。
長屋状の櫓のことを多門櫓と言って(←たぶん細長くて多くの門があるから)、明治以降に「多聞」と書かれるようになったらしい。
石垣
石切りの跡が残っている石垣も。
立派な石垣!石垣を見るたびに「積むの大変だっただろうな…」って思います。
ちなみに生捕櫓というものもあって、ここで敵を集中攻撃したらしいです。
石垣の反対側は坂道。坂を登ってきた敵を、石垣の上から攻撃するという算段です。