中世

【日本史】蒙古襲来(元寇)をわかりやすく:なぜ幕府は滅亡に向かった?

モチオカ(望岡 慶)

蒙古襲来(元寇)について説明します。

モチオカ
モチオカ
社会科ブロガー
Profile
千葉の公立中・公立高から、1年間の浪人を経て東大へ(文3→教育学部→大学院教育学研究科)。公立中学校の教員になった後、数年で退職。現在はブロガーとして生計を立てて8年目。★学生時代から教員時代にかけて、ずっと引っかかっていたのは、学校で学ぶ社会科と現実の社会とのギャップ。教科書を理解しても、ニュースを理解できない。このギャップを埋めたくて、今も社会の勉強を継続中。★目標は「世界一の社会科教員」——教えるのがうまい人ではなく、「この人といると自分も学びたくなる」そう思ってもらえる存在——になること。
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蒙古襲来(元寇)

日本は外国と大きな戦争をすることになりました。

外国との大きな戦争で有名なのは、663年に唐・新羅の連合軍と戦った白村江の戦いです。それくらいインパクトのある、大きな戦争を日本は久しぶりに経験することになります。

モンゴルとの戦争です。

経緯

モンゴル帝国の成立

13世紀に、モンゴルが勢力を伸ばしました。

チンギス=ハンっていう人がユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国を作った。

で、チンギス=ハンの孫であるフビライっていう人が、中国を支配するために都を大都(今でいう北京)に移して、国の名前をとしました。

フビライが日本に朝貢を要求

元の皇帝フビライは、1268年、日本に「朝貢しろよ!」って伝えるために代表者を派遣してきました。

朝貢っていうのは、中国の周辺の国のリーダーが中国の皇帝に貢ぎ物を送ってご挨拶をすることを言います。(超重要)

朝貢された中国皇帝は、「よしよし、良い子だな」って感じで朝貢をしてきたリーダーを「あなたは〇〇国の国王です」って認めてあげて、銅鏡とかの豪華なモノをたくさんあげます。これを「冊封」と言います。

日本は昔、中国に対して朝貢をしていました。(遣隋使とか遣唐使とか)

が、日本は遣唐使を廃止してから、中国に朝貢はしていませんでした。

鎌倉幕府の執権だった北条時宗は朝貢を拒否

中国を支配した元が日本に朝貢を要求してきましたが、この要求を、鎌倉幕府の執権だった北条時宗は拒否をしました。

鎌倉幕府は防衛体制を強化

拒否をした後、「元との戦争になるかもしれない」っていう危機感から、幕府は防衛体制を強化します。

1274 文永の役

いよいよ1274年、元がやって来ました。

元に抵抗していたけど抑え込まれた高麗も軍に加わって、合わせて約3万の兵がやって来たようです。

元は対馬・壱岐を襲った後に、九州北部の博多湾に上陸。

御家人はこれを迎え撃ちましたが、元は集団戦法で戦ったり、火薬を使った武器を使ってきたりしたらしく、日本はかなり苦戦したようです。

※幕府は馬に乗った武士が一騎討ちで戦う個人戦法だったから苦戦した、って昔は言われていましたが、いろんな説があって、必ずしも一騎討ちだったから、っていうわけでもないようです。

結局、元は自主的に引き上げて、日本としては「助かった」ってことになりました。この1回目の戦いを文永の役と言います。

※元が引き上げた理由も、いろんな説があります。

鎌倉幕府は再度、防衛体制を強化

なんとか助かった幕府は、この後、防衛体制をさらに強化します。

  • 博多湾岸などに、上陸を阻止するための石の壁(石塁・防塁)を作った
  • 九州北部を御家人に警備させる仕組みを強化した

1281 弘安の役

元は、1279年に中国南部にあった南宋っていう国を滅した後、1281年に再び日本にやって来ました。

2回目は約14万人の兵だったらしいです。

かなりやばい状況ですが、幕府の石塁や御家人が活躍したり、暴風雨で打撃を受けたりして、元は結局またまた引き上げていきました。

この2回目の戦いを弘安の役と言います。

3回目の襲来は行われず

この後も元は3回目の戦争を計画していたみたいで、幕府は警戒し続けたんですけど、結果的に3回目は行われませんでした。

蒙古襲来の影響

この2回にわたるモンゴル(元)との戦争のことを、蒙古襲来(元寇)と言います。

2回とも元が引き上げてくれて、日本は征服されずに済んだわけですが、「めでたしめでたし」っていうことにはなりませんでした。

の蒙古襲来を一つのきっかけにして、鎌倉幕府が滅亡へと向かうことになったからです。

蒙古襲来は、鎌倉幕府にざっくり言うと2つの変化をもたらして、その変化によって御家人は幕府への不満を募らせることになりました。

得宗専制政治の成立

1つ目の変化が、北条氏一族のトップの人(嫡流の当主)が絶大な権力を握るようになったことです。

鎌倉幕府は、執権やそのサポート役の人たちとの話し合いで政治を行う仕組みで政治を行なっていました。

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が、蒙古襲来っていう危機が訪れた。戦争の危機がある時は、何か物事を決める時にいちいち大人数で長々と話し合ったりする余裕はありません。

その結果、その仕組みが機能しなくなって、得宗っていう北条氏一族のトップの人に権力が集まるようになりました。

これを得宗専制政治と言います。

得宗が、専制政治(思うままに政治)を行うってことです。

そうすると、周りの御家人からすると、やっぱり不満がたまってくる。

御家人の生活がますます苦しくなった

2つ目の変化が、御家人の生活がますます苦しくなったことです。

重要なのは、蒙古襲来に関係なく、もともと御家人の生活が苦しくなっている状況だったということ。

御家人は分割相続をしていた

御家人は、自分の子供とかに土地を分けて相続していました。(分割相続)

でも土地は勝手に増えるわけじゃありません。

だから、何代にも渡って分割相続が繰り返されると、だんだんと富の基盤である土地が小さくなっていく。

こうして、もともと御家人の生活は苦しくなっている状況でした

日本列島の中の土地は限られていて勝手に増えないんだから、分割相続をしたらだんだん貧しくなるのは当たり前な気がするんですけどね。明らかにシステムエラーですよね。

貨幣経済が浸透していた

あと、この時期には貨幣を使うようになって経済が急速に発展していました。

経済が発展すると、(くわしい説明は省略しますが、)うまくいく人が出る一方で、失敗したり運が悪かったりして貧しくなる人も出てきます。

御家人も同じで、生活が苦しくなっていた人がいました。

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蒙古襲来

このように、もともと御家人の生活が苦しくなっている状況でした。

そして、そこに蒙古襲来が重なった。

御家人は、御恩に対する奉公っていう形で、戦いに参加するっていう契約を将軍と結んでいます。なので、モンゴル軍が襲って来たらモンゴルと戦うわけです。

モンゴルと戦うためには武器とかの装備や食べ物が必要ですから、時には借金をしたりして、そういうものも頑張って準備する。

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ところが、別にモンゴルと戦ったからといって新たに土地が増えるわけじゃありません

だから、奉公したのはいいけれど、御恩として新たに土地の管理権を認めてもらえる!っていうことがなかった。負担だけして、何もプラスになるものをゲットできなかった

これが、防衛戦争だった蒙古襲来の不都合な現実。御恩なき奉公。

日本国内で反乱が起きて、その反乱を抑えれば、反乱を起こした人の土地を奪い取ることができます。が、蒙古襲来においては、日本の御家人に悪者はいません。

ってことで、もともと御家人の生活が苦しくなっている状況で蒙古襲来がその状況を加速させることになりました

お金に困った御家人が急増

その結果、御家人の中には、借金を簡単には返せなくなって、富の基盤である土地そのものを質に入れたり売却したりしちゃう人も出て来た。

質に入れるっていうのは、お金を借りるために、もしもの時のために物を預けることを意味します。

  • この場合だと、土地と預ける代わりに、お金を借ります。
  • お金を貸してくれた人にお金をちゃんと返すことができれば、土地を返してもらうことができます。
  • が、お金を返せなかった場合、「質流れ」といって、土地はお金を貸してくれた人のものになります。

御家人はお金を借りるために、土地を質に入れたり売却したりしていました。

それくらい、お金に困った御家人が増えたっていうことです。

1297 永仁の徳政令

御家人が貧しくなっても「そんなの自己責任じゃん」って済ませることはできません。

鎌倉幕府としては、奉公できない御家人が増えると、幕府の仕組みを成り立たせることができなくなって困ります。

そこで、幕府は御家人を救うための政策を行います。有名な政策が1297年の永仁の徳政令です。

これは

  • 御家人の土地の質入れや売却を今後禁止する
  • それまでに質流れしたり買ったりして手に入れた御家人の土地は、返さなければいけない

っていう内容のルールでした。

むちゃくちゃだなって感じがしますが、こんなむちゃくちゃなルールを出さなきゃいけないくらい、幕府としては危機的な状況だったし、御家人を優遇するような政策をしないといけなかった、っていうことだと思います。

結局、御家人の土地の質入れや売却を禁止するルールは1年後に廃止されることになって、永仁の徳政令の効果は一時的だったようです。

悪党の増加

こうした中で、特に近畿周辺では、幕府や荘園領主の支配に従わず、武力を使って抵抗する武士が現れるようになっていました。

このような人々のことを「悪党」と言います。

鎌倉幕府の仕組みがかなりぐらついていますよね。

鎌倉幕府の滅亡へ

こうなると、幕府はトラブルを解決しないといけないわけですが、北条氏一族のトップが権力を握っていた鎌倉幕府はうまいことやることができなかったみたいです。

で、ますます御家人は不満を募らせることになりました。

そして、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきます。

動画でも解説

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千葉の公立中・公立高から、1年間の浪人を経て東大へ(文3→教育学部→大学院教育学研究科)。公立中学校の教員になった後、数年で退職。現在はブロガーとして生計を立てて8年目。★学生時代から教員時代にかけて、ずっと引っかかっていたのは、学校で学ぶ社会科と現実の社会とのギャップ。教科書を理解しても、ニュースを理解できない。このギャップを埋めたくて、今も社会の勉強を継続中。★目標は「世界一の社会科教員」——教えるのがうまい人ではなく、「この人といると自分も学びたくなる」そう思ってもらえる存在——になること。
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